横田理論「芸術は表現であり議論を巻き起こすための装置」という投稿記事のヘッダー画像前投稿では、私の芸術とは何か?についての定義『芸術とは意図した何かの表現であり、または議論を巻き起こすためカラクリ・装置である』について説明し、美術大学・芸術大学での芸術定義の教育実態も説明しました。
 今回は先人の学説を調査し私の定義の独自性と真実性を検証しました。

定義を作るにはある言語の言葉や語句、表現を、一対一で翻訳することはできないことの壁がある。

 ここで一つ注意してほしいことがあります。

 ギリシア文明に起源を持つヨーロッパにおいて、日本語の『芸術』や『美術』に一対一で当たる言葉はありません。
 今でも。
 これは大学の語学教育でもずっと大きな問題となってきたことですね?
 ある言語の言葉や語句、表現を、一対一で翻訳することはできないのです。

 芸術・美術という言葉と、ギリシア語源のテクネ―、ラテン語のアルス、これがアートという言葉の起源ですが、アルスは「Ars longa, vita brevis(アルス ロンガ ビタブレヴィス)」で使われていますね。
 古代ギリシアの医師ヒポクラテスに帰される格言のラテン語訳です。原文は、「Ὁ βίος βραχύς, ἡ δὲ τέχνη μακρή Ho bios brachys, he de techne makre」で、直訳に近い意味は、「人生は短く、技術・技芸・学問の習得には長い時間がかかる。です。
 
 例えば小樽商大の図書館には昔から「Ars longa, vita brevis」という看板が掲げられていますが、これを僕が入学した1980年に長谷部亮一学長は学報への寄稿で「よく「芸術は長く、人生は短い」という意味に誤解されているが、アルスは技術であり、そこから来た科学などの学問のことだ。」と
 長谷部学長のこの文章をみて、私は非常にがっかりしたというか、意地の悪さを漢じました。「芸術よりも科学技術や学問の方が上だ!」と言った意味が明らかに込められているように感じたからです。

 この言葉は長く私に大学教授陣の姿勢に敵対心を植え付けましたが、後で分かったことですが、実際は、大学の先人教官たちは、むしろ芸術に重きを置いていたのです。
 なぜなら、大学図書館の入り口を入ってすぐのところに、中心にドカンと置かれていたのは、特別に作った本棚に収められた高価な大判の「集英社の現代世界美術全集 西洋美術 日本美術」の全冊でした。
 これを誰もよりも読んで利用していたのが私で、何回読んだのかは、数えきれません。

 これは、恐らく「人間は何を本当の価値とみなして生きるべきか?」という大学から学生へのメッセージだったのだと思います。
 でなければノーベル文学書候補の伊藤整や蟹工船を書いて最後は特高に虐殺された小林多喜二のような文学者を輩出したりしませんよ。

 こんな事情なので欧米では今でも美術家もミュージシャンも「アーティスト」と言われている訳で、論文などではどちらを指すのかは文脈や文の内容、掲載写真で判断するしかないんですね。
 絵画という言葉もDrawingだったり、Picutureだったりで、版画にあたるのはPrintsで、これって印刷物のことだよね。笑。
ところが日本だと、日本画、油彩画 水彩画 彫刻 漆工芸 銅版画 石版画など美術作品の種類をそのものずばりと指す熟語があるわけです。

 こうなると、芸術とは何か?の定義もその用語と起源の差により、やはり定義を思考するのにどうやってもその影響を免れない面があるでしょう。

 よく、バイリンガルで育つと、うらやましく思うかもしれないが、どっちも中途半端になって、当の本人が「自分は何人なのだろう?」と非情に悩むといいますが、母国語に精通していなと、思想を正確に編み上げられないからでしょう。

 日本語で言えば、古典文学も含めて、漢字やカタカナ、ひらがな、擬音、オノマトペ。歴史と美術作品などの文化遺産への知識など。

ちなみに美術の美は中国の漢字で、これは「羊がまるまると太ってみるからに美味しそうな姿」から来ています。羊が大きいで、美なんですね。
 そうなるとラテン語の『venustas:美、優美、魅力 ヴィーナスの語源』といった単語とは意味が全然違う訳だし、今の『美しい』が指す意味より「美味しくて栄養になる」「大きくてたくましく沢山子を産めそう」という豊満さの賞賛という意味だったのかな?と推測するのです。
 

先人の芸術の定義・・・西洋編

★芸術は表現である。という説明のタイプ

  • トルストイ(1897)は、芸術を、自分が体験した感情を他人に伝え、受け手にも同じ感情を体験させる活動と捉えました。
  • カントは、芸術を、それ自体が目的的な表象であり、社交的な伝達のために心の諸能力を高めるものと定義しました。
  • ダントーの定義は、主題を持つこと、それについての態度や視点を示すこと、観客の参加を促す修辞的な省略を用いることを条件に含む、と解釈されています。
  • デイヴィッド・デイヴィス(2004)は、作品を作ることに「芸術的言明」の提示を必要とする、と論じます。
  • ノエル・キャロルは、日常の会話で話し手の意図を理解するのと同じように、作者の意図の理解も作品解釈の正当な目標になると主張しています。

「議論や対話を生む装置」に近い学説

  • マルセル・デュシャンは1957年に、創造行為は作者だけのものではなく、鑑賞者が解読と解釈によって作品を外の世界と結びつけ、創造に加わると述べました。
  • エーコ『開かれた作品』(1962)は、作品の構成の一部を公衆や偶然に委ねる「開かれ」の概念と、反応を作品と読者の相互作用として捉える視点を示しました。
  • アルフレッド・ジェル『Art and Agency』(1998)は、芸術を、他人の思考や行動に影響を与えるための道具的な行為と見ます。「装置」という語に最も近い先行例です。 グラント・ケスター『Conversation Pieces』(2004)は、芸術を、視覚的な見世物ではなく会話として機能するものとして論じます。
  • クレア・ビショップ(2004)は、対立(アンタゴニズム)も、社会的な結束と同じく、芸術の制作と鑑賞の原動力になりうると論じました。「議論・討論」を重視する私の考えに、最も近い先行研究の一つです。

現在の有力な芸術の定義

Stanford Encyclopedia of Philosophyの「芸術の定義」の項目は、現代の定義を、制度や歴史を重視する規約主義的なもの、美的性質を重視する伝統的なもの、両者を併せた混合型に分けています。

  • 制度説:ディッキーは、芸術作品を「アートワールドの公衆に提示されるために作られた人工物」と定義します。
  • 歴史説:レビンソンは、先行する作品が正しく鑑賞されてきた仕方で鑑賞されることを、真剣に意図されたものと定義します。
  • 美的定義:ビアズリーは、際立った美的性格を持つ経験を与えることを意図した配置と定義します。
  • クラスター説:ゴートは、芸術に結びつく10の特徴(美的性質、感情の表現、複雑な意味を伝える能力、個人的な視点など)の集まりで捉えます。
  • 混合型・進化論的アプローチ:ステッカーやスティーヴン・デイヴィス、ディサナヤケらがいます。

この項目は、どの定義が優れているかは、何を最も説明すべき事実とみなすかに依存する、と結論づけています。

横田の定義の位置づけ・・・・芸術は何らかの表現であり、論争を巻き起こす装置である

前半は、トルストイ以来の表現説と、作者の意図を重んじるキャロルの系譜に連なりました。
後半は、鑑賞者の役割を重視するデュシャン、エーコ、そして対話と対立を論じるケスターやビショップの系譜に連なります。

調べた範囲では、この二つを「または」で結び、「それ以外にはない」とする同じ形の定義は調べたかぎり見つかりませんでした。
横田理論に敵対するタイプの定義は以下の通りです。

  • バルトは、作品の意味を作者の意図に還元することを批判しました。
  • デュシャンは、作者は、自分が何をなぜしているのかを美的な水準では意識できない、とまで述べています。
  • ランシエールは、意味は、作者の知識や着想が観客に伝わることではなく、両者の間にある誰のものでもない「第三のもの」に宿ると論じました。

横田理論への反証可能性はあるか?

 
 今回は日本の学説については検証していません。これは次の投稿記事でおこないます。

 そこで、この時点で、千住博の『コミュケーション説』のようなただちの反証ができるでしょうか?

 探してみてください。思いついたら是非、問い合わせフォームにて是非知らせてください。説得力のある内容であれば投稿記事で発表しますので。

 ここで注意してほしいのは、私がある種の表現。というのは、鑑賞者の心理を、鑑賞後に変化させ、できればその後の行動を変える意図を意識的に、あるいは無意識的にでも意志している場合ということです。

 例えば、先のデュシャンは『論議を巻き起こす装置』作品を発表した典型的な美術家ですが、「なぜ、この作品を作ったのかを意識するのは難しい!」と言っているとするなば、だから「私は何らかの意図をもって、表現した訳ではない。」と言ったとしても、この言葉が残ってしまうし、その呪縛からは逃れられないでしょう!

「なぜ、あなはこれを作り、展覧会に運んで発表したのですか?」

まったく、鑑賞されることを期待していない。鑑賞者の心理に何らかの変化や前進を期待していない。

のなら、それは「犬のウンコですか?」ということになりますよね?

つまり、作品を制作し展示する。ということ。それがバンクシーのように街路の壁であっても。その時、鑑賞者とその反応。による心理の変化やニュースに取り上げられる期待をしていないはずは絶対にないでしょう?

つまり、コミュニケーションなら、意図がないことも多い訳です。

9.11の被災者が県職員や自衛官に困っていることを必死で訴えることは、相手の心に変化を期待するのではなく、こちらの困難を理解して解決方法を考えて解決してもらうことのみを期待しているわけです。

だから、この横田理論という『表現+議論喚起器械」を反証できるでしょうか?

そして、横田理論は、美術だけに当てはまることを想定していません。音楽、文学、詩、演劇、ドラマ、映画、シナリオ、パフォーマンス、ダンス。全てに当てはまりますよね。

だから、『それは君の主観であって、それを私たちに押し付けるな!』というなら反証してください。

科学の発見と同じです。反証不可能な定義は真実、事実であって主著ではない。

ということは、多くの芸術家が自分の芸術観、芸術理論を声高に主張して制作発表していますが、そちらの方が「あなたの主観や勘違い、思い違い。主張』ではないか?

一度横田理論に照らし合わせて、その品質と社会的意義を自己検証するのが良いのではないか?と考えます。

東京画廊の山本豊津代表は「ただ好きで書いている。それは素人である。プロとは、相手を、社会を想定して、何をどのようにアプローチして相手の心や行動を変化させ、こちらの意図を伝えているか?この客を想定して計算して制作し告知・宣伝するのがプロ」という意味のことを、もう20年も前に教えてくださり、また、色んな講演や雑誌での談話などで伝えていますね。

私の伝えたいことも同じです。

プロになりたいなら、プロの制作態度を取るべきであり、横田理論をしっかり理解できれば、システムエンジニアは『要件定義、概要設計、内部設計、詳細設計、コーディング(プログラム作成)、間違い直しと修正、統合して完成」というシステム構築手法で制作しようとするでしょう?

あんたの横田理論「芸術は表現であり議論を巻き起こすための装置」という投稿記事のヘッダー画像この思考の変化はとても大きなものではないですか?

◆前の記事・・・芸術とは何か?――芸術とは何か訴えたいことの表現であり、対話や議論を生むための装置である!(前編)

## 参考文献

Gaut, "The Cluster Account of Art," in N. Carroll (ed.), *Theories of Art Today* (2000) ※題名未確認 / Danto, "The Artworld," *The Journal of Philosophy* 61 (1964) / Dickie, *The Art Circle* (1984) / Carroll, *Beyond Aesthetics* (2001) / Davies, *Art as Performance* (2004) / Tolstoy, *What Is Art?* (1897) / Duchamp, "The Creative Act" (1957) / Eco, *Opera aperta* (1962) / Gell, *Art and Agency* (1998) / Kester, *Conversation Pieces* (2004) / Bishop, "Antagonism and Relational Aesthetics," *October* 110 (2004) / Rancière, *Le Spectateur émancipé* (2008) / Adajian, "The Definition of Art," *Stanford Encyclopedia of Philosophy* (2024改訂)

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