日本の美術界や美大教育において、作品を語る際によく使われる「見る人の感性に委ねます」「内なるエネルギーの表現です」といった言葉。
私はこれまで、こうした反証不可能な曖昧な感情論に対して強い疑問を抱き、芸術を「表現+対話の装置」と再定義してきました。
では、日本において「芸術」や「美」という概念は、先人たちによってどのように論じられてきたのでしょうか。
本稿では、欧米の『芸術とは何か?』についての先人の定義を調査してまとめたのに続き、今回は明治以降の日本の美術家や思想家、そして日本を代表する美学者たちの学説を詳しく検証し、私の理論(芸術=表現+対話の装置、および音律と色彩の物理的翻訳)が日本の美術史・美学史の中でどのような位置にあるのかを明確にします。
1. 「主観の表出」から「関係性・制度」への変遷
日本の「美術」や「芸術」という言葉は、明治期に西洋の概念を翻訳するために作られた制度的な産物です。
そのため、日本の芸術論は常に独自の葛藤と定義の更新を繰り返してきました。
■ 近代:自我の覚醒と「主観・情念」の表出
明治から大正にかけては、芸術を「個人の主観・感情の表出」と定義する動きが主流でした。
- 高村光太郎(彫刻家・詩人): 「僕が若し緑色の太陽を描いても、君は僕を非難する事は出来ない」(1910年)と宣言。自然を正確に模写することよりも、画家の内に秘められた絶対的な主観(インナア・ライフ)を叩きつけることこそが芸術であるとしました。
- 柳宗悦(思想家・美学者): 「民藝」の美学。個人の作為や「自分が作ってやった」という自意識を否定し、名もなき職人が無心で作った日用品(用の美)にこそ真の美が宿ると主張しました。
■ 昭和〜現代:「関係性」と「制度」へのハッキング
戦後になると、単なる個人の感情表現を打破する強烈な理論が登場します。
- 岡本太郎(芸術家): 彼は当時の日本の画壇がもてはやしていた「床の間に飾れる無難で綺麗な絵」を徹底的に批判し、「芸術はうまくあってはならない。きれいであってはならない。ここちよくあってはならない」と宣言しました。
芸術とは、社会の常識や予定調和と激突する強烈なエネルギーの爆発であり、人間の根源的な生命力を呼び覚ます「べらぼうなもの(常識を打ち破る途方もないもの)」でなければならないと定義したのです。
- 李禹煥(美術家・モノ派): 作家の作為(作るという行為)を極力減らしました。
石や鉄板といった物質(モノ)をそのまま配置することで、モノと空間、そして鑑賞者との間に生じる「出会い(関係性)を開示する場」として作品を定義しました。 - 村上隆(現代美術家): 西洋のアート界のルール(文脈)を徹底的に読み解き、そこに日本のオタク文化や平面性(スーパーフラット)を接続して価値を創造する「社会学的・市場戦略的芸術論」を確立しました。
2. アカデミズムの最高峰が示す「芸術の真理」
日本の芸術論が「情念の爆発(岡本太郎)」から「市場ゲーム(村上隆)」へと揺れ動く一方で、学術的・ 哲学的な美学研究の頂点では「芸術」と「美」はどのように定義されていたのでしょうか。
東京大学出版会の『講座 美学』(今道友信編、1984〜85年)において、日本を代表する3人の研究者が残した、極めて重要な学説を紐解きます。
① 佐々木健一(美学者):「芸術」とは、18世紀に発明された「制度」に過ぎない
千住博氏などが言う「芸術は人間が元々もっていた本性であるコミュニケーションだ」というような見方を、佐々木氏は歴史的エビデンスで問を投げかけます!
古代から中世において「アート(アルス/テクネー)」とは、靴作りや医術を含む「規則に基づく熟練した技術」全般のことでした。
そこから絵画や音楽だけを切り離し、「美を目的とする特別なもの=芸術(ファイン・アート)」という特権的なグループにまとめ上げたのは、たかだか18世紀の西洋のブルジョワ社会です。
つまり、私たちが無条件にありがたがっている「芸術」とは、絶対不変の神聖な営みなどではなく、近代が作り上げた「制度的な枠組み」に過ぎないのです。
② 利光功(美学者):美とは主観的感情ではなく、数学・物理的な「客観的構造」である
近代以降、美は「人間がそれを見てどう感じるか(好きか嫌いか)」という、心の中の曖昧な問題(主観主義)に矮小化されてしまいました。
しかし利光氏は、古代ギリシャの美学に立ち返り、美の本質は対象そのものが持つ「客観的な秩序や構造(プロポーションやハルモニア)」にあると主張します。
ピタゴラスが弦の長さと音階(音律)の間に数学的な美を見出したように、美とは個人の気まぐれな感情論ではなく、自然界の物理的・数学的な真理(存在の輝き)に根ざしているべきだというのです。
③ 今道友信(哲学者):創造(ポイエーシス)とは感情の垂れ流しではなく「法則」を与えること
今道氏は、「創造」という言葉が安易に使われていることに警鐘を鳴らします。
神による「無からの創造」とは異なり、人間の芸術的創造(ポイエーシス)とは、絵の具や音といった既存の素材(物質)に対して、自らの知性と精神による「普遍的な形・法則(エイドス)」を与える、極めて厳格で哲学的・実存的な行為です。
つまり、「自分の内なる感情をキャンバスにぶつける(表現する)」だけの行為は、真の意味での創造とは呼べないのです。
3. 横田理論の先進性と歴史的意味
ここまで、日本の先人たちによる学説と、最高峰のアカデミズムによる美学の定義を見てきました。
これらを踏まえると、私の主張である「芸術=表現(歴史的文脈に基づく新しい見方)+対話の装置(鑑賞者に再構築を促す仕掛け)」、そして実践としての「音律と色彩スペクトルの同形性の証明(物理法則とプログラムによる翻訳)」が持つ歴史的意味が明確になります。
| 時代・人物 | 芸術・美の定義とアプローチ | 作品の機能・役割 |
|---|---|---|
| 高村光太郎 | 絶対的な主観・自我の表出 | 自己の感情を叩きつけるカンヴァス |
| 岡本太郎 | 社会との激突、生命力の爆発 | 常識を破壊するべらぼうな呪術的エネルギー |
| 李禹煥 | 世界との関係性の開示 | モノと空間と人間の「出会いの場」 |
| 村上隆 | 西洋の文脈と市場ルールの攻略 | 美術史に接続された知的コンテクスト |
| 【横田理論】 | 物理的真理の翻訳と認知の起動 | 芸術とは何らかの意図による表現であり鑑賞者に議論を巻き起こすことを意図して作った装置」 |
私の理論は、これらの学説を踏まえ、さらに根源的な領域へと踏み込んでいます。
私は、利光功氏が指摘した「客観的な秩序や構造(美の真理)」を、現代の自然科学(光波と音波の物理法則)として解明しました。
そして、今道友信氏が定義した「素材に法則(エイドス)を与える行為」を、Pythonプログラムによる数理的変換と、長年の手仕事(パステル・絵画技術)の融合によって実践しています。
感情の垂れ流しでもなく、市場ゲームのための記号でもない。
まず「作品制作(手仕事による美の追求)」が先にあり、平行して理論研究を重ね、出た結論を作品制作にフィードバックしていく。
『横田の定義』は日本の美術史において、曖昧な感情論・感覚論を終わらせるための一つの確固たる到達点であると自負しています。




