今日は。

北海道、札幌市在住のパステル画家・ジクレー版画家・デジタルアート作家の横田昌彦です。

『現代アート、現代美術とは何か?その価値とは』という連載記事の『村上隆はなぜ欧米で高く評価されるのか?世界のアート界に反逆するバンクシー!アメリカ・規イギリスの現代美術・アート作品の価値判断・評価』という記事で、バンクシーが今の現代アートを支配している100人の村を相手にしていないことをお伝えしましたね。

今日は現代美術のアーティストがインターネットの登場で、生殺与奪権を握って来た画商(ギャラリスト)やキュレーターから自由になり始めていることについて解説していきます。

商業画廊の取扱い画家をめざさなくなった芸大・美大生

小山登美夫ギャラリーやミズマアートギャラリーが台頭してきたこの30年間、日本の芸大生や美大生はそれまで目指して来た国画会などの公募団体の会員になることに背を向けて、こぞっていかに早く数少ない現代美術の有力商業画廊の契約作家になるかを競って来ました。

会田誠のように三潴末雄さんのようなギャラリストに発見してもらえるかどうか?こそが現代アートの作家としての勝敗だったのです。

画廊には必ず、ギャラリストが好む画風・カラーがありますから、有力な画商に気に入られるために画風を画廊のものに合わせる事を求められることもあります。

 私もそうでしたが、結局それは飲めない相談でした。

私自身は傾向と対策で制作したことは一度もありません。

しかし、「ギャラリストや評論家・キュレーターが好む作品を作れ」と著書の『芸術闘争論』などで公言している村上隆は逆に飲んできた人でしょう。

まさに『傾向と対策の鬼』ですね。

公募団体からギャラリーへと流れが変わる節目になった時期は、福田美蘭さんが立て続けに賞を取りもてはやされてた1990年前後で、彼女は雑誌で

「東京芸大の私の周りの友人たちも公募団体には出品していません。学校でも公募団体に所属するメリットは何もないと聞いています」

と話していました。

それまでは保守層は公募団体をめざし、現代美術志向の人はコンクールの受賞をめざしていました。

針生一郎や東野芳明、本江邦夫、谷新などの評論家が作家以上にパワーを持っていた時代でした。

ところがここ数年、芸大生・美大生は取扱いアーティストになるのをそれほど望まずオルタナティブ・スペースという共同で画廊空間を借りてメンバーの作品の常設と販売、美術館などへの営業をするグループを作って活動するようになっています。

また、MOMAなども彼らに注目し来日するようになって来ました。(美術手帖 2015年5月号 『日本のアーティスト最前線』より)

ただし、これらの活動もオルタナティブ・スペースではないですが『カオス・ラウンジ』主催の黒瀬陽平氏が社員の安西さんにセクハラで訴えられるなど、新聞で多くのセクハラ事件が起こっていることが報道されるなど負の側面も目立ちます。

さらにネットの普及でInstagramなどで一躍人気アーティストになる人『世界画家旅人 ZIN』さんのようにホームページとSNSだけで既成の美術関係者とはまったくコンタクトを取らないで年収1000万以上を稼ぐ作家が出て来ています。

また、海外の作家でもMADSAKIさんやジョシュア・ネイサンソンのように村上隆がInstagramで発見して日本に紹介して一躍知られるようになる人も出てきました。

本心にしたがって自由に制作しているか?探求する喜びを感じているか?

マイケルサンデル 朝日新聞の記事
先日の朝日新聞で『ハーバード白熱授業』でおなじみのマイケル・サンデル、ハーバード大学教授が、「競争で芸術作品を制作すべきではない」と主張しています。

「教育を能力主義的な競争に変えてしまうと、本来の目的である学ぶことへの愛が薄れ、何を本当に勉強したいのか?を自問する能力が薄れてしまう。

「市場主導型の能力主義社会である現代は、個人の成長や知的探求といった教育を評価できず、競争や比較を動機とした別のものに変えてしまう危険性があります。」

「それは 音楽を楽しむことから得られる喜びや幸せを、私たちから奪うことになるかもしれないということです」(記事から抜粋)

先に話した画商主導の時代になるまで、絵を描くのを楽しいと感じている画家を私はほとんど見た事がありませんでした

ほぼ全員、『数少ない自分の強みである絵画の制作能力を他者に認めてもらい名誉と金を得る事』が目標になっていると感じました。

これはカントがいう『目的と手段を取り違えている状況』ですね。

例外は梅原龍三郎で、梅原は高峰秀子さんに

「近頃の画家は何か勘違いしているのではないか?画商に渡すまでは作品は自分のものなのだから自分が観たい作品を描くのが当たり前なのに」

と言っていたそうです。(『私の梅原龍三郎』高峰秀子著 文春文庫 より)

梅原に会った画商さんの話を聞いたことがありますが、朝から酒を飲んでいて対談中もそうだったそうですが、絶えず左手で円を描くように作品を空で描いていたそうです。

江崎玲於奈さんなどの多くのノーベル賞受賞者が

「受賞よりも自分が解明したかったことを解明できた喜びの方が大きい」

と話しますが、私も『音楽の絵画への翻訳法則』を発見・解明したときはノーベル賞受賞者のこの発言をすぐに思い出しました。

 画商に依存する必要性がなくなってきたことによって、やはり自分のアートへの価値判断基準により正直に従えるようになり、制作への自由と解放感をより味わえるようになってきたと感じます。

長年親しくしていただいている東京画廊ですが、代表の山本豊津さんがいうように東京画廊は開業間もなく安井曽太郎氏に非常に良くしてもらっていて、画風も物質感のある絵肌の安井曽太郎のものを引き継いでいます。

ところが私が画家をめざすようになったきっかけは梅原龍三郎の『桜島 青』に感動したからで私は熱烈な梅原派なのです。

梅原の『北京秋天』を国立近代美術館で観たことがありますが、透明水彩のように薄い日本画絵具の層を重ねており、隣の油絵具厚塗りの安井作品とは好対照です。

ですから、最終的に東京画廊と私の画風は水と油ということで契約作家になれなかったのですが、しかし、そのことで全面に梅原龍三郎への志向を出してよいという解放感は得られたと思います。

色んな有名画商と会って話してみると、画商によって有名なアーティストの評価が全然違うことが分かります。

例えば草間彌生

ミズマアートの三潴末雄やミズマアート作品の高名なコレクターである高橋龍太郎さんは草間彌生の熱烈なファンですが、別の世界的な画商さんは

「何が良いのか分からない。」

といいました。

私も何が良いのか分からない派ですが、どうも草間彌生の作品は観て考えるのではなく、ロックミュージックのように観て感じる。ビートを感じて感動するもののような気がします。

こういう点でも、作家と作品への評価は自分の感じ方・評価に正直にあるべきで、特にこれからはガゴシアンのアーティストは素晴らしいのだと思い込んでいるそのうち大恥をかきかねないと思います。
サイトウンブリー 作品画像
サイ・トゥオンブリーなんて本当に優れていますかねえ???(右写真参照)

ところでどんな作品でも自由に発表できるかというと、以前も話したとおり筒井康隆

「手塚治虫や永井豪などの売れっ子漫画家はみんなエロ漫画を描いて机にしまっているに違いない。『ザーメンライダーV3』とか『ハレンチ学園 本番編』とか。見たいな見たいな。本当に見たいなあ~~~!」

と言っていましたが、エロ絵画は私も勇気がなくて発表できないですよ。

世のエロ漫画師は嫁さんや親戚にどう説明しているのだろう?

つくづくエロ漫画師は偉いと敬意を感じます。

エロ漫画師こそ本物の画家です。

吉田拓郎の落陽の歌詞ではないですが「あんたこそが~~~正直者だ~~~♫」

完全に自由な制作は自己満足と傷のなめ合いに堕する可能性がある

完全に自由に描くにしても、経験上、一度は一流の画商やキュレーターに作品の評価と感想を言ってもらった方が良いと思います。

もっとも、その事こそほとんどの美術家志望の人には難かしいということを『私の履歴書』で書きましたね。

これはなぜかというと、自分自身が自己満足とグループの場合傷のなめ合いに堕する可能性があるからです。

以前、出品したら必ず東京都美術館に展示してくれる公募団体に出品したことがあります。

懇親会に出席して私が「明日は有名な○○画廊のギャラリストに会って作品の写真を見てもらうのですよ。」と言ったら

「それは、あいつらのいつものやり口だ。彼らは食えなくなることへの不安をいつも抱えているので取りあえずたくさんの画家をキープしておきたいだけだ。」

というのです。

そう言ったのは東京の有名美大卒の人で会の幹部でした。

その意見に、居合わせた人たちは全員賛同したのですが、ほぼ全員東京の有名美大の卒業生でした。

彼らは会期にお互いの作品の論評会を毎回行うのですが、この発言などがきっかけで私は出品するのを止めました。

自由な制作であるから制作技術や制作理論が低レベルであっていいわけではない。

なのに、いつのまにかその低いレベルに甘え慣れてしまっている人が多いと思います。

ではそのレベルはどうやったら客観的に判断できるのか?

一流の画商はアートフェアや芸大・美大の卒展などでアーティストと比べものにならないもの凄い数の絵を観て記憶しています。

ダミアンハーストや村上隆などのスター・アーティストや黒川紀章などの有名人とも数多く話しています。

その目からみて自分と言う人間がどう映り、作品のクオリティーがどのレベルなのか?を一度は尋ねた方が良い訳です。

さらに、色んなスタイルで描くにしてもピカソのように確固たる自分の画風・スタイルを確立してからにしないとまずいと思います。

東京画廊の山本代表は

プロとアマチェアの違いは、鑑賞する他者の眼とその人たちを通してどう外部に対して影響を与えていきたいかを想定して制作しているかどうかで、他者への考慮を入れない制作活動は趣味でただ好きで描いているにすぎない!」と言ってます。

まさにその通りで、自由に描くにしてもプロならば鑑賞者の眼と与える影響を想定しなくてはいけません。

それは小説家などにも同様にいえることですよね。

 

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