芸術とは何か?――ある意図からの表現であり対話を巻き起こすためのカラクリ・装置である
今日は私の芸術についての定義を、先人が出した解答・思想を検証してその真偽を説明したいと思います。
横田の芸術理論・・・・『芸術とは、作者が訴えたいことの表現である。または、議論や対話を巻き起こすために作られた装置である。』
◆反証可能性・・・まず、科学哲学者のカール・ポパーが1934年に提唱した反証可能性。あらゆる学問上の主張は反証可能性に照らし合わせて、真偽を決めなくてはいけません。これは文系・理系に関わらず同じですね?
例えば「肺癌の原因は長年の喫煙である」とある医学研究者が主張した。
「でも、タバコを長年凄く飲んで肺癌にならなかった人がいるのはどう説明するの?」という意見が出てきますね?
これが『反証』です。
そうすると、「肺癌の原因はタバコである!」ということの真実性は崩れ、その根拠と意義はデータを統計分析した確率に移りまずね?有意に発癌率が高かった。ならば「タバコは肺癌の原因のひとつである」ということが取り合えず真実となります。
哲学・科学研究とはこの反証可能性に照らし合わせることです。
千住博の芸術の定義・・・芸術とはコミュニケーションである。
千住博氏は著書などで「芸術は人と人とのコミュニケーションである」と説いています。
彼の定義は簡単に反証されます。
彼は、どうも9.11の被災者との対話でそう想い付いたようですが、これ、その被災者のおばあさんを芸術家とするなら、話しかけてくる被災者も県職員もボランティアも、看護師も全員芸術家となってしまいます。
もっというと、資金集めのパーティで演説する政治家や秘書も、質問する出席者も皆。芸術家になってしまう。
これは、京都芸術大学長という、大学教官が主張するのは大問題です。
大学は学者が教育指導する場ですよね?学者は哲学者であり科学者ですよね?
芸術大学が現役の画家や彫刻家、音楽家、映画監督が指導するといっても、この点で例外を認めるのはかなりまずい!
というか、現在では注意深くあるべきだと考えます。
それはあり得ないでしょう。これなら、人類みな芸術家となってしまう。
卒業生が「芸術はコミュニケーションなんだ」と思い込んで制作していくと・・・・彼らはそれ以降順調に成長していけるでしょうか?梯子の最初の一段が壊れているのに。そうでしょう?
学長は講演や大学での講和・講義で、この定義を話しますよね。
学者は反証可能性が確定され保証されていないことを、学生に話してはいけない。
話すなら、「これも芸術の機能の一つと考えられないか?それはどんな場面で、どんな状況なら適合し有効なのか?」と話さなくてはいけない。
なぜなら、教わる学生が『間違ったこと』を真実と信じて生きていきかねないからです!
卒業生が「芸術はコミュニケーションなんだ」と思い込んで制作していくと・・・・彼らはそれ以降順調に成長していけるでしょうか?梯子の最初の一段が壊れているのに。そうでしょう?
例えは花瓶に生けた花の絵を描いた場合
例として、ルドンのように花瓶に生けた花の絵を描いたとします。
◆①芸術はコミュニケーションである。という固定観念の人は「どこをどう工夫するとコミュニケーションになるのか?発表するときは鑑賞者に積極的に話すべきか?次はどんなコミュニケーションをする作品を選ぶべきか?」と深刻に悩むでしょう?
◆②対する横田の定義では
そうか。芸術は表現なのだから、次の作品で自分は何を表現しようか?まずアイデアを沢山出し、ノートに書きだし、アイデアを絞り、概要を設計していこう。
つまりコンピュータシステム開発と同じ 構想を練る→要求定義→概要設計(全体の大まかな図の設計)→内部設計・詳細設計(部分の設計)→コーディング(制作)→バグ取り(部分お書き直しや修正)→完成
という方法を取っていくかもしれません。
そこで、彼は「あれっ?これって、小説や脚本、論文、社説を書くのと同じじゃない?絵を描くのはTVのプロデューサーや映画監督、脚本家の仕事と同じではないか?」
と気づき、その制作方法を参考にして、分野の壁を突き切っていきますよね?
これは、制作力がどんどん自由にアイデアが出て飛躍していくでしょう。
以上のように最初の定義という基本で何を教えるのか?が予後を決定的にするのです。
で村上隆が平山郁夫学長に「芸術って何ですか?」と質問した件!
村上隆は東京芸大生時代、あまりの日本画壇の酷さに憤慨して平山学長に「先生、芸術って何なんですか?」と聞いたところ「君も若いからね!」と返答され「それは教育ではない」と思ったそうです。(参照文献)
つまり「東京芸大ではまともな美術・芸術教育をしていないのではないか?」と感じ、結局GEISAIでスカウトした若手を自分でサポートして教育していくシステムを作っていく行動に結びついていきます。
「それを反面教師に東京芸大に在籍した11年間の特に後半は「美術」とか「芸術」とはどういうことかと一生懸命勉強して、博士号を取得するところまで意地でやりました。」と同参照文献で語っています。
私は、ここがほぼ同期の千住博と村上隆の大きな差だと感じています。
実は、この話に関連して平山郁夫は「この道一筋に: 平山郁夫ノ-ト」同文書院のp34あたりで「若い頃に芸術とは何か?という疑問の壁にぶち当たりました。美術家は一生かけて、誰のものとも違う自分の芸術哲学を作りあげないといけない。学者が前人未踏の発明。発見するのと同じで、それができたものだけ芸術家になれるし、これは本当に死にもの狂いに努力しないと生まれません。」と言っています。
だから、分からないかった訳ではなくて、「自分の見解を話すと、自由にオリジナルの芸術定義を作る邪魔になる。」と考えたのだと思います。同書にも克明に説明されています。「どの道も同じで回り道させることが重要」と。
またp33に「論点を主張していく、一つの説、論をたてるという、これがなかなかむずかしいわけです。芸術の分野でも学問でもこれがひらめきであり才能であると思います。」
しかし・・・・それは自分の経験からも分かりますが、美術家養成大学の教授としては「責任放棄」とみなされても仕方ないし、あってはいけないことでしょう。
自分の見解をまず確固たるものを披露すべきであり、それは普遍性をもち反証可能性に耐えるものでなくてはならないし、「私はこう定義したけど、君たちはどう思う。ここで早速議論しようじゃないか?」と授業展開すべきでしょう!
しかし、結果として村上隆は猛烈な、努力、東京芸大日本画科初の博士号を取るなかで「スーパーフラット理論」という完全オリジナル理論を打ち出します。
これは独学の私も同じですが、結果として教えず寄り道させた方が、一部の天才には花も実もなる。
これは京都大学の学風にも非常ににていますが・・・結果としてそうなります。
以上のような事情から、これから紹介する学説も、特に横田の定義『芸術とは、作者が訴えたいことの表現である。または、議論や対話を巻き起こすために作られた装置である。』も常に皆さんに厳しく反証してほしいのです。
その定義に例外はないのか?あるなら、それをどう説明するのか?と。
その上で反証できるなら、ぜひ、このサイトの問い合わせフォームからその旨連絡してほしいのです。
AIに聴いたところ、「美しいものが芸術なのか。美術館に飾られれば芸術なのか。鑑賞者が何かを感じれば芸術なのか。現代の美学には、これらのどれか一つを唯一の答えとする合意はありません。」
と回答してきました。
私が今までに読んだ本や文献、芸術家の発言でも定石=「これが正しい定義」と学界などで共通理解を得ているものはやはりありません。
そこで私は、先人の議論を調べたうえで、自分の定義を立てました。
カルアーツの例・・・「アーティストとは何かだって?フェアじゃない!」「馬鹿者!」
「現代アートの無題裏」ランダムハウス社のp76にこう書かれています。
多くの美術家を輩出してきたカルアーツ(カリフォルニア芸術大学 California Institute of the Arts)を訪問した筆者は学生や関係者、教官らあらゆる人ににこんな質問をしまくったのです。
「アーティストとは何か?」
そして返ってきた答は?
学生「フェアじゃないよ!」、「無茶苦茶な質問だ!」
ある大学の美術学科で要職を占めるアーティストは「ばかもの」とののしってきた。(笑)
ある一流クレーター「いやあ、あなたの質問はどれも同語反復に等しいやり方でしかこたえられないね、私にとってアーティストとはアートう作る人間なんです。循環論法ですな。
たいてい、アーティストに会ってみて初めてアーティストの何たるかが分かるものですな!」
と。「はあ?」ですよね?(笑)
「気を悪くしる人間が一人でもいたことがレスリーディックには信じられなかったようだ。「アーティストの仕事って実は遊びなのよ。ただし、思い切りまじめな意味でね!2歳の子供が積み木で塔の作り方を発見するじゃない?あれと同じね。片手間でできることではないけど。つまり、自分の内面にある何かをつかまえ、それから解放されるために、つかまえたものを外に履きだすの」
ん~~~~っ、『遊び』という点などは傾聴に値する意見ですが・・・・何でしょう・・・つまりアートとは自分の無意識のエイリアンか悪魔の子を追放することなのかと?(苦笑)
少なくともカルアーツに学校で統一基準の芸術・アートの定義はない。
といえるでしょう。
つまり少なくともアメリカでも、きちんと指導してはいないようです。
それで、卒業生の制作作品に品質保証ができるのかどうか?
後編は、先人の芸術についての定義(欧米編)を調査し、横田の定義の真実性を検証します。





