なぜ「なんとなく描く」抽象画では足りないのか?
モナリザ、ミュシャの《四季》、モネの《ラ・ジャポネーズ》。
これらの絵が今なお人の心をとらえるのは、そこに描かれた女性の個性――性格や才能、まなざしの機微――が、具象という手法によって初めて描き出されているからだ。
抽象画にはこの繊細さを担う語彙がない。
音楽も同じである。
大瀧詠一の「カナリヤ諸島にて」を聴くとき、私たちの脳裏に浮かぶのは、リゾートビーチに寄せては消える波しぶきであり、アイスティーに浮かぶオレンジであり、南国のヤシの木である。
この曲を「受けた印象」だけで抽象画に置き換えても、詩と旋律が本来喚起しているはずの、これらの具体的なイメージは画面に立ち上がってこない。
「絵画の色と音楽の音とでは、周波数の理論も人間の感受性・知覚のメカニズムもまるで違う。
だから両者を統合するのは不可能だ」――これが、これまでの常識だった。
しかし、この「不可能」という前提こそが、実は最も疑うべき場所である。
「不可能」を選ぶことがイノベーションである
ノーベル賞やスマートフォンのような技術革新は、いずれも「それは無理だ、実現不可能だ」とされていた課題を可能にしたところから生まれ、社会に広まっていった。
ノーベル賞を狙うなら、最初から「不可能」とされている課題を選ばなければならない。
起業やイノベーションにおいても事情は同じで、不可能と考えられていたことを可能にする行為こそがイノベーションの本質である。
ポアンカレは、幾何学と代数学を結びつける位相幾何学を切り拓いた人物だが、彼の言う「数学とは、異なるものを同じものとみなす技術(あるいは道具)である」という言葉は、この橋渡しの本質を言い当てている。
W・ヤングもまた「アイデアとは、既存の要素の新しい組み合わせである」と述べた。
音楽と絵画という、これまで別々の知覚系に属するとされてきた二つの領域を、一つの確固たる規則によって結びつけること――これもまた、この定石に連なる試みである。
確信を持って点・線・面・色を置くために
「自分の気分や感覚に応じて何となく抽象画を描くこと」「曲から受けた印象やイメージをそのまま絵にすること」――これでは、画家が本当に表現したいことを十分に表現しきれない。
説明不足のまま画面が完成してしまう。
だからこそ画家は、抽象画を描くときにも、この横田理論=「楽譜を絵画に翻訳する法則」を理解し、それを利用して確信を持って点・線・面・色を画面に置かなければならない。
もっとも、これは古いシュルレアリスムの画家たちが行ったオートマティズム(自動筆記的な制作)を否定するものではない。
偶然に身をゆだねるチャンス・オペレーションは、自分自身の無意識をより深く、より明瞭に理解するための作業として、多様な制作のあり方の一つとして十分に意義を持つ。
ただし、そうした偶然的な制作を行うときでさえ、横田理論は絶えず立ち返るべき基準点であり続ける。
それはちょうど、サミュエルソンが著書『経済学』の中で、マルクスが『資本論』第一巻で描き出した資本主義の構造を、近代経済学・資本主義経済学を学ぶ上で絶えず定期的に立ち返って分析すべき「レントゲン写真」にたとえたのと同じ意味を持つ。
制作者は、偶然に委ねた成果物であっても、絶えずこの理論に立ち返り、分析・検証を行うべきなのである。
絹谷幸二が描いた「花」という作品がある。
花瓶に生けられた沢山の花の中央に漢字で『花』と描かれている。
調性音楽には詩があるから、詩の内容を絵を観る人伝えるために歌詞を文字で文章で描くというのは、こっけいな結果になる。
ダサい!のであり、この方法は駄目!不味いのである。(笑)
一方雪舟や池大雅などの画には、添えられた『賛』の書が添えられている。
書は日本と中国のカリグラフィ=文字装飾美術だし、中国の唐時代(7〜9世紀頃)から始まり、日本には奈良時代〜平安時代(8〜9世紀頃)に伝わってという長い歴史もある確立した表現技法である。
だからといって詩の内容を、いつでも文字で書き込めがOKというものではない。
これはの筆致に見られるように、書や絵画における筆の「声」――すなわち個人のスタイル――もまた、この理論が扱う領域と地続きの問題である。
ここはさらに絵への書の導入ということも含めさらに掘り下げるべき課題だと思う!
新点線面理論――カンディンスキーを客観化する
ここまでの主張を、色と形の側から裏づけるのが「新点線面理論」である。
調性音楽が持つ具体的な形や個性の表現は、抽象的な図形だけでは表しきれず、具象の図形によってこそ表現可能になる。
カンディンスキーは著書『点と線から面へ』の中で、図形と色の使い方、そしてその組み合わせが鑑賞者に与える効果、線がもたらす多様な表現効果について論じた。
だが、彼の教え子たちが後年語った内容や、ニナ・カンディンスキーが回想録『カンディンスキーと私』で描いている通り、その体系はあまりに主観的にすぎるきらいがある。
そこで、ユングの曼荼羅研究――円・四角・三角が大地や自己の全体性を象徴するという知見――を参照することで、カンディンスキーの理論をはるかに客観的で理解しやすいものへと整備し直し、多くの制作者が実際に使えるものにすべきだと考える。
抽象画家は、「何となく、その時の気分や脳裏に浮かんだイメージをそのまま画面に転写する」という制作態度をまず退け、色と形の意味を意識的に、実験的に扱っていくべきである。
私なりに整理した内容は、以下の通りである。
色――色には情感や象徴的な意味があり、それを整理・理解した上で、意図的に、必然性を持って使用すべきである。
形(○△□)――セザンヌが「自然は円筒と球と円錐によって扱われる」と説いたように、○△□は自然を構成する三要素であり、それぞれが担う意味を等しく理解しておく必要がある。
| 形 | 象徴する意味 |
|---|---|
| ○(円) | 卵、卵子、星、遺伝子、あらゆる要素、円満、原子、陽子 |
| □(四角) | 均整のとれた男性性、部屋、大地から切り取られた範囲、大地の象徴、原稿用紙のマス目 |
| △(正三角形) | ヒエラルキー、上昇、階級、精神性の高さ、刃物、攻撃性、突発的な量の多さ |
| ▽(逆三角形) | 下降する力、原爆投下、衰退、過去、大地に逆らって均衡しようとする力 |
カンディンスキーが指摘した通り、色と形は組み合わせによって意味と表現効果が変わる。
たとえば青い円は穏やかで男性的な知性を、金色や黄色の円は後光・知恵・天性・直観知・全脳思考を表す。
メロディとは、具体物のシルエットである
具体物は、そのシルエット――具体物から抽出された抽象的な輪郭線――によって、見る者に元の具体物を連想・暗示させることができる。
音楽におけるメロディとは、まさにこの働きをするものである。
旋律の上下動や長さの変化は、色と高さと形という視覚言語に置き換えられたとき、聴覚だけが担っていた「具体的な何か」を暗示する力を、そのまま視覚の側に引き継ぐことができる。
結び――白髪一雄の意図を超えて
芸術とは、議論を呼び起こすための仕掛けであり、一つの表現行為である――これは白髪一雄が制作に込めた意図でもあった。
だが、私たちはもはや、それだけにとどまるべきではない。
以上の理論を知った上で、意識的に、確信を持って制作すべき時が来ている。




