芸術とは何か?――ある意図から生まれる表現であり、対話を巻き起こすためのカラクリ・装置である
今日は、私自身の芸術の定義を紹介するとともに、先人たちが提示してきた解答や思想を検証し、その妥当性について考察したいと思います。
横田の芸術理論――「芸術とは、作者が訴えたいことの表現である。または、議論や対話を巻き起こすために作られた装置である。」
千住博氏は、次のように述べています。
「これまでにおびただしい数の“芸術とは何か”というテーマを扱った本が出版されています。しかし現代に至るまで、誰も芸術とは何かという決定打を出せずにきました。」
(千住博「『混沌』を示すことが、現代を生きる芸術家の使命でもある。」「【第1回】『芸術とは何か』についての考察」より)
◆反証可能性
まず、科学哲学者カール・ポパーが提唱した「反証可能性」という考え方について説明します。
ポパーは、科学的な理論が科学として成立するための重要な条件として、その理論が反証可能であることを挙げました。つまり、どのような事実が観察されれば、その理論が誤りだと判断できるのかを明確にできる必要があるということです。
もちろん、あらゆる学問上の主張が、科学的理論と同じ方法だけで真偽を判定できるわけではありません。しかし、自分の主張にどのような根拠があり、どこまで妥当するのかを検討する姿勢は、文系・理系を問わず重要です。
例えば、ある医学研究者が「長年の喫煙は肺がんの原因の一つである」と主張したとします。
ここで、「長年、大量にタバコを吸っていても、肺がんにならなかった人がいるではないか」という反論が出てきたとしましょう。
しかし、これは、それだけで「喫煙が肺がんの原因の一つである」という主張を反証したことにはなりません。喫煙者全員が肺がんになるわけではなく、肺がんには喫煙以外の要因も関係するからです。
重要なのは、喫煙者と非喫煙者の発症率などを比較し、統計データや医学的な証拠に基づいて、喫煙が肺がんの発症リスクを高めるかどうかを検証することです。
このように、主張の内容に応じて適切な方法で証拠を検討し、反論や反証に耐えられるかを確かめることが重要なのです。
哲学や科学の研究においても、自分の主張を絶対視するのではなく、批判的な検討に開かれたものにする姿勢が求められます。
千住博の芸術の定義――芸術とはコミュニケーションである
千住博氏は、著書やインタビューなどで、「芸術は人と人とのコミュニケーションである」という趣旨の考えを述べています。
私は、この定義には、検討すべき重要な問題があると考えています。
千住氏は、9.11の被災者との対話をきっかけに、この考えに至ったようです。しかし、仮に人と人とのコミュニケーションが芸術の定義そのものであるなら、被災者のおばあさんを芸術家とみなす場合、その人に話しかける被災者や、県職員、ボランティア、看護師なども、すべて芸術家ということになってしまわないでしょうか。
さらにいえば、資金集めのパーティーで演説する政治家や秘書、質問する出席者なども、みな芸術家ということになりかねません。
もちろん、コミュニケーションが芸術の重要な機能の一つであることは否定しません。しかし、コミュニケーションを行うことと、芸術を制作することは、同じなのでしょうか。
私は、ここを明確に区別する必要があると考えます。
京都芸術大学の学長という立場にある人物が芸術について論じるのであれば、その定義がどこまで適用できるのか、どのような例外があるのかについても、慎重に検討すべきではないでしょうか。
大学は、学問や専門的な知識を教育する場です。芸術大学では、現役の画家や彫刻家、音楽家、映画監督などが学生を指導することもあります。しかし、だからといって、芸術についての定義や理論を批判的に検討する必要がなくなるわけではありません。
「芸術とはコミュニケーションである」という定義をそのまま採用すると、人類のほとんどすべての人間が、何らかの意味で芸術家になってしまう可能性があります。
では、学生が「芸術とはコミュニケーションなのだ」と理解し、その考えだけを頼りに制作を続けた場合、その後の成長にどのような影響があるでしょうか。
私は、芸術の定義という出発点が、その後の制作や思考の方向性を大きく左右すると考えています。
学長が講演や大学の講話・講義で芸術の定義を示すのであれば、それがどのような意味で妥当なのか、どのような限界があるのかについても説明すべきです。
少なくとも、十分に検討されていない見解を、唯一の正解であるかのように学生に伝えることは避けるべきでしょう。
伝えるのであれば、例えば「コミュニケーションは芸術の機能の一つと考えられないだろうか。それはどのような場面や状況で当てはまり、どのような場合には当てはまらないのだろうか」と問いかけ、学生と議論する方法が考えられます。
なぜなら、学生が一つの見解を無批判に受け入れ、それを唯一の真実だと思い込んでしまう可能性があるからです。
例えば、花瓶に生けた花の絵を描く場合
例として、ルドンの作品のように、花瓶に生けた花の絵を描く場合を考えてみましょう。
◆①「芸術とはコミュニケーションである」という固定観念を持っている場合
「どこをどう工夫すれば、コミュニケーションとして成立するのだろうか」「作品を発表するときには、鑑賞者に積極的に話しかけるべきなのだろうか」「次は、どのようなコミュニケーションを生み出す作品を選ぶべきなのだろうか」
このように、コミュニケーションをどう成立させるかという問題に、必要以上に悩んでしまうかもしれません。
◆②横田の定義に立った場合
「そうか。芸術とは表現なのだから、次の作品では自分は何を表現したいのだろうか。まずはアイデアをたくさん出し、ノートに書き出してみよう。その中からアイデアを絞り込み、作品の概要を設計していこう」
このように考え、制作を進めていくことができます。
これは、コンピュータシステムの開発にも通じる考え方です。
構想を練る
→要求定義
→概要設計(システム全体の大まかな設計)
→内部設計・詳細設計(各部分の具体的な設計)
→コーディング(制作)
→デバッグ(不具合の発見と修正)
→完成
もちろん、芸術制作がシステム開発と完全に同じだというわけではありません。しかし、構想を練り、アイデアを整理し、全体像を設計してから具体的な制作へ進むという方法は、芸術にも応用できます。
その過程で、制作者はこう気づくかもしれません。
「あれ? これって、小説や脚本、論文、社説を書くのと同じではないだろうか。絵を描くことも、テレビのプロデューサーや映画監督、脚本家が作品を構想することと共通しているのではないか」
そして、小説や映画、システム開発など、異なる分野の制作方法を参考にしながら、分野の壁を突き破っていくのです。
こうした発想は、制作の可能性を広げ、より自由にアイデアを生み出すことにつながるでしょう。
以上のように、出発点となる芸術の定義によって、何を学び、どのように考え、どのような方法で制作するのかが大きく変わり得るのです。
村上隆が平山郁夫学長に「芸術って何ですか?」と質問した件
先に紹介した千住博氏は、こちらのページで、次のように述べています。改めて引用します。
「これまでにおびただしい数の“芸術とは何か”というテーマを扱った本が出版されています。しかし現代に至るまで、誰も芸術とは何かという決定打を出せずにきました。ところが、現代という時代が、芸術とは何か、果たすべき役割とは、という問いに明確な答えを浮かび上がらせたんです。芸術とは人と人とのコミュニケーションそのものであり、人間が共生していくための知恵であると私たちは気づいたのです。」
千住氏の言葉を踏まえると、少なくとも、芸術とは何かという問いに対して、万人が納得する唯一の定義が確立されているわけではない、という問題意識が読み取れます。
私は、ここにこそ、芸術理論を改めて検討する意義があると考えます。
村上隆氏は東京藝術大学の学生時代、日本の美術界のあり方に強い疑問を抱き、平山郁夫氏に「先生、芸術って何なんですか?」と質問したところ、「君も若いからね!」と返答されたそうです。
村上氏は、その返答に対して「それは教育ではない」と感じたといいます。
この経験は、村上氏が美術教育のあり方について考えるきっかけの一つになったと考えられます。
その後、村上氏はGEISAIなどを通じて若い作家を発掘し、支援・育成する仕組みを作っていきました。
村上氏は、同じ参照文献の中で、次のように語っています。
「それを反面教師に東京芸大に在籍した11年間の特に後半は『美術』とか『芸術』とはどういうことかと一生懸命勉強して、博士号を取得するところまで意地でやりました。」
私は、この点に、ほぼ同世代の千住博氏と村上隆氏の考え方の大きな違いが表れているように感じます。
実は、この話に関連して、平山郁夫氏自身も、著書『この道一筋に――平山郁夫ノート』(同文書院)の中で、芸術とは何かという問いについて語っています。
同書の34ページ付近には、若い頃に「芸術とは何か」という疑問に直面したこと、美術家は一生をかけて独自の芸術哲学を築かなければならないこと、そして、それを実現するには大変な努力が必要であることが述べられています。
また、同書の33ページには、次の趣旨の記述があります。
「論点を主張していく、一つの説、論をたてるという、これがなかなかむずかしいわけです。芸術の分野でも学問でもこれがひらめきであり才能であると思います。」
この記述からは、平山氏が、芸術家自身が独自の芸術哲学を築くことの重要性を認識していたことがうかがえます。
つまり、平山氏が芸術とは何かを理解していなかったというよりも、学生自身が自分なりの芸術哲学を築くことを重視していた可能性があります。
同書には、あえて回り道をさせることの重要性についても述べられているとのことです。
しかし、私は、ここには別の問題もあると考えます。
学生が自分自身の芸術哲学を築くことは重要です。しかし、美術家を養成する大学の教授には、学生が考えるための材料となる知識や理論を提供し、議論を導く役割もあるのではないでしょうか。
独自の芸術哲学を築くことを学生に求めるのであれば、教員自身も、自らの見解を提示し、それを学生とともに検討する必要があると私は考えます。
まず教員自身が、確固とした見解を提示する。そのうえで、「私はこう定義したが、君たちはどう思うだろうか。ここで議論してみよう」と授業を展開するべきではないでしょうか。
その際、提示する定義は、可能な限り普遍性を持ち、批判的な検討に耐えられるものであることが望ましいでしょう。
もちろん、芸術の定義は、自然科学の法則と同じ方法で真偽を判定できるものばかりではありません。だからこそ、定義がどのような作品や活動に当てはまり、どのような例外があるのかを、具体例に基づいて議論することが重要なのです。
村上隆氏は、東京藝術大学での学びや研究を通じて、博士号を取得し、独自の芸術理論である「スーパーフラット」を提唱するに至りました。
これは、独学で芸術を研究してきた私自身の経験とも重なります。
ただし、教育の場であえて答えを与えず、学生に回り道をさせる方法が、すべての学生にとって最善だというわけではありません。自分で問いを立てて考えることで大きく成長する人もいれば、適切な知識や指導がなければ先へ進めない人もいるでしょう。
この点では、京都大学などに見られる、学生の自主性や独自の思考を重視する学風とも共通する部分があるように思います。
以上のような問題意識から、これから紹介する先人たちの学説についても、そして横田の定義――「芸術とは、作者が訴えたいことの表現である。または、議論や対話を巻き起こすために作られた装置である」――についても、ぜひ厳しく批判・検証していただきたいのです。
この定義に当てはまらない作品や活動はないのか。例外があるとすれば、それをどのように説明できるのか。
そのような観点から検討し、私の定義に問題があると考えられた場合は、ぜひ、このサイトの問い合わせフォームからご意見をお寄せください。
なお、AIに「芸術とは何か」と尋ねたところ、次のような回答がありました。
「美しいものが芸術なのか。美術館に飾られれば芸術なのか。鑑賞者が何かを感じれば芸術なのか。現代の美学には、これらのどれか一つを唯一の答えとする合意はありません。」
私がこれまでに読んだ書籍や文献、芸術家の発言を振り返っても、「これが唯一正しい芸術の定義である」という共通理解が、学界全体で確立されているとはいえないようです。
そこで私は、先人たちの議論を調べたうえで、自分自身の定義を立てました。
カルアーツの例――「アーティストとは何かだって? フェアじゃない!」「馬鹿者!」
『現代アートの無題裏』(ランダムハウス社)の76ページには、アーティストとは何かという問いをめぐる、興味深いエピソードが紹介されています。
多くの美術家を輩出してきたカルアーツ(カリフォルニア芸術大学、California Institute of the Arts)を訪れた著者は、学生や関係者、教員など、さまざまな人に次の質問を投げかけました。
「アーティストとは何か?」
さて、どのような答えが返ってきたのでしょうか。
学生たちは、「フェアじゃないよ!」「無茶苦茶な質問だ!」と反応しました。
また、ある大学の美術学科で要職に就くアーティストは、「ばかもの」と罵ったそうです。(笑)
さらに、ある一流クリエーターは、次のような趣旨の回答をしています。
「いやあ、あなたの質問には、同語反復に等しい答え方しかできないね。私にとってアーティストとは、アートを作る人間なんです。循環論法ですな。たいてい、アーティストに会ってみて初めて、アーティストとは何かが分かるものですな!」
これでは、「アーティストとは何か」という問いに、明確に答えたことにはなっていないように思えます。「はあ?」と言いたくなりますよね。(笑)
さらに、著者のレスリー・ディックは、質問に気を悪くする人がいたことに驚いたようです。
その一方で、ある人物は、アーティストの仕事について、次のような趣旨の説明をしています。
「アーティストの仕事って、実は遊びなのよ。ただし、思い切りまじめな意味でね! 2歳の子どもが積み木で塔の作り方を発見するじゃない? あれと同じね。片手間でできることではないけど。つまり、自分の内面にある何かをつかまえ、それから解放されるために、つかまえたものを外に吐き出すの」
「遊び」という視点は、傾聴に値する興味深い考え方です。
しかし、ここで語られている説明は、アーティストの創作活動の一側面を説明しているのであって、芸術家とは何かという問いに対する、普遍的な定義になっているのでしょうか。
自分の内面にあるものを外に吐き出すことが芸術だとするなら、そこには、どのような条件が必要なのでしょうか。内面の感情を表現することと、芸術作品を制作することの違いは何なのでしょうか。
こうした疑問が残ります。
少なくとも、このエピソードからは、カルアーツで芸術やアーティストの定義について、誰もが共有する明確な基準が存在していたとは確認できません。
もちろん、この一つのエピソードだけで、カルアーツ全体が芸術教育を適切に行っていないと結論づけることはできません。しかし、芸術家を育成する教育機関において、「アーティストとは何か」という根本的な問いをどのように扱うべきなのか、考えさせられる事例です。
では、芸術家を養成する大学は、卒業生の制作能力をどのような基準で評価し、育てていくべきなのでしょうか。
後編では、欧米の先人たちが提示してきた芸術の定義を調査し、横田の定義の独自性と妥当性を検証します。
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◆芸術とは何か?【Part II】――先人の学説を調査しました。私の定義の独自性と真実性を検証(後編)
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◆芸術とは何か?【Part III】――先人の学説を調査しました(日本美術・思想編)
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◆芸術とは何か?【Part IV】――日本文化とは何か? 日本の芸術・美術の特徴を先人の研究から知る!
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