今日は。北海道、札幌市在住のパステル画家の横田 昌彦です。
今日は現代美術・アートのの鑑賞の仕方、価値について解説したいと思います。
ネットでアート関係で検索していると、
「現代美術=モダンアート・コンテンポラリートには興味があってコレクションもしてみたい気がするけど「どうやったら内容が理解できるのかが分からない。」
「村上隆や奈良美智など有名なアーティストの作品のどこに価値があるのか?
なぜあんなに高い評価を得ているのかが分からない。」
という若者が非常に多いように思います。
奈良美智は本の表紙にもなり、アニメのキャラクタみたいで単純に好きだ。という方は多いと思いますが、これが村上隆になると
「あんなアニメとしてみてもとりわけ優れているとも思えないアニメもどきの作品のどこが良いのか?」
と評されきたと思います。
村上がアート界で注目され始めてからこのかた、村上隆と作品に低評価を下さい若者との押し問答が、若い人を中心にずっと続いてきたと思います。
ちなみに、私は村上隆も奈良美智も会田誠も好きですし高く評価しています。
今の20代、30代の若い人はわからないと思いますが、現代美術が世界的なブームとなり日本でも美術業界の主流となったのはここ30年のことです。
それまでは油彩を始めとする洋画壇は国画会や独立美術協会、日本画は日展・院展・創画会の3団体を中心とした公募団体作家が日本美術界の主流でした。
これらの洋画壇の有力画家の絵を販売する総本山のような画廊が銀座の日動画廊で、日本画はフジヰ画廊や村越画廊などが一流と言われ時代でした。
特に土地バブル時代は日本画家が持てはやされ、1枚数千万から1億などの値で日本画のコレクターに飛ぶように売れていき、芸大・美大卒で公募団体や企業主催のコンクールで受賞した作家は、若くして高額所得者となっていました。
そのフジヰ画廊も最近閉店してしまいました。
その頃の現代美術ギャラリーは一番老舗の東京画廊と、横尾忠則を扱った南天子画廊、デビッド・ホックニーを日本で最初に紹介し船越桂を売り出した西村画廊、抽象画家、辰野登恵子を扱っていた佐谷画廊などが有力な画廊としてあるぐらいで、東京画廊などは現代美術だけでは経営を維持できず裏で古美術取引をして画廊を維持していた状況だったと思います。
村上隆、奈良美智を日本で最初に扱った小山登美夫ギャラリーは1996年に、会田誠を見いだしたミズマアートギャラリーは1994年に開廊しました。
この年の前後くらいから芸大・美大生の多くが公募団体を嫌い、これらの商業現代美術画廊との契約を目指すようになっていきました。
分水嶺となったマルセル・デュシャン
村上隆氏は著書で、欧米の美術業界で認められる作品を作るためには次の条件が必修であるいっています。
- 西洋美術の歴史・文脈の中で新しい提案・革新(イノベーション)を呈示していること
- どこかエロティシズムを含める事
- 必ずデュシャンの要素を含めること
現代美術とそれまでの美術の分水嶺となったのがマルセル・デュシャンの『泉』(写真)という市販の『金隠し』です。
この作品をデュシャンが1917年にニューヨークで開催された独立芸術家協会 (Society of Independent Artists) の「ニューヨーク・アンデパンダン」展に出品しようとして展示拒否され、怒った彼が同展覧会の実行委員長を辞任したいこと大スキャンダルとなり、
「デュシャン前、デュシャン後」
と言われる、美術の歴史に後戻り不能の影響を与えました。
この事件がもたらしたことは
「美術作品とはカンバスや絵具に縛られる必要はない。制作においては原則としてあらゆる自由が認められるべきである。あらゆる拘束や既成概念を無意味とすべきである」
という認識です。
あらゆる制作手段が認められる。あらゆる分野が美術の材料足りうる。
という事をデュシャンは人々に教えてくれたのです。
デュシャンの影響で、今日、欧米のアート界でトップに君臨するとみなされているダミアン・ハーストのデビュー作である『サメのホルマリン漬け』や、『真っ二つに切断された牛の母子のホルマリン漬け』といった作品が登場してくることになるのです。
東京画廊の山本豊津代表に私のアート作品への推薦文を書いていただいた時も
「いつも横田君には言っていることだけれども、やはり一度、ルーチョ・フォンタナをじっくり研究す
べきだよ。
あれはねえ、本当に驚くべき奥の深い作品群です。」
と言われましたが、フォンタナのこのキャンバスを切った作品もデュシャンと同じ事を言っていると思います。
「私が今でも絵画というジャンルに固執している。その必要はないのに。」と言いたかったのでしょう。
村上隆も数多くの立体作品を作っていますし、奈良美智も作っています。
今話題のバンクシーは壁と路上を表現素材にしてしまいました。
デュシャン後、モダンアートが世界的にブームになった1990年以降は
『もはやアート界は、分類不能の何でもありのお花畑状態である』
と言われましたが、これは、 今日アートが人間の融通の利かない堅苦しい考え方、既成概念の鎖から頭脳を解き放ち、まったく自由に考え、頭脳に究極の柔軟性をもたらしてくれる存在になったことを表わしています。
特にここ2・3年、世界のビジネスエリートがハーバード・ビジネススクールなどのMBAよりも『ロイヤル カレッジ オブ アート』などのアートスクールに通うようになってきている事も、このことが理由の一つでしょう。
現代美術の「あらゆるものを作って良いし、あらゆるもの制作が可能である」という考えは、ここ数年、アミューズメント・娯楽・遊び・美しさ・感動・面白さとデジタル技術と結びつき、チームラボの作品のように多くの人が観たがる魅力的なコンテンツを生み出してきています。
これは、ワシリー・カンディンスキーが
「物質で遊ぶ資本主義の悪ふざけの時代から、精神の時代、精神の王国を作らなくてはならない。」
と『芸術における精神的なもの』で言った時代が本当に到来しつつある状況になったといえるでしょう。
スタジオ・ジブリのアニメやシン・エヴァンゲリオン、鬼滅の刃などの漫画・映画ももちろんアートです。
多くの先進国の人々は、物がもたらす喜びから、精神の快楽・愉悦や新しい気付きをもたらしてくれるコンテンツを求める時代が来たといえるのではないでしょうか?
しかし、全てが自由であるとすると、世の中のあらゆる行為が『芸術』という事になります。
例えば多くの人間を殺害して「これが私の芸術作品」といってもそれは芸術作品ではない。
新しいかまぼこの製造工場を作って、これを芸術作品と主張してもそれも違いうと思いますよね。
では、芸術作品とそれ以外の物事とは何が違うのか?
続きは『No2』をお読みください。