この作品ですが、右側が印象派時代のフランスの巨匠オディロン・ルドンの『レオナルド・ダヴィンチ 礼讃』、左側が私が約10年前に制作した『レオナルド・ダヴィンチ礼讃 Ⅱ』。
「あ~~なるほどルドンの作品を参考に真似て作ったんですね」と思われるかもしれませんが、違います。
この作品の構図とイメージは、別な投稿記事にてお話しましたが、大学時代に3部作の小説を書いたのです。
ところが小説の結末が当初の構想とまったく別なものとなってしまい、自分で描いた小説の主題が何なのかが分からなくなってしまったのです。
この小説はシュール・リアリスムの自動筆記のように、無意識の内容が一気に噴き出して書かれたものなので、作者である自分でも作品に表現されている認識すべき思想が理解不能だったのです。
それで、その主題をずっと考えているうちに、私の脳裏に徐々に形成されていったものです。
イメージは徐々に少しずつ形成されていったのですが、大部分のイメージが完成してこれを絵にしようと決めた時には、私はまだこのルドンのこの作品の存在は知らなかったのです。
不思議でしょう?
ほとんどまったく同じ構図ですよね。
この作品をパステルで描いた理由は、制作開始時には数年前から『アゲハ蝶』などの作品をパステルで描く経験を積んでいたからという理由もありますが、制作に取り掛かる前にルドンのこの作品を知ったことも理由の一つです。
このように、私もルドンも自然に紙にパステルで制作するようになっていったのです。
しかも、ルドンのこの絵の女性は明らかにレオナルド・ダヴィンチの『聖母子と聖アンナ』を参考にしていると思います。
もちろん、参考にしたのはマリアではなく聖アンナの方でしょう。
私の作品の方のモデルは女子アナウンサーの頼近美津子さんで、彼女はダヴィンチの聖アンナにそっくりです。(詳しくは画像をクリックしてみて下さい。)
ルドンは育ったペイル=ルバードについて
「このような荒涼とした眼に快いものが何もないところでは、何か美しいものを空想し想像して作るより仕方なかったのだ。」
と言っています。
実際に現地に行った研究者の方の話を聞くと、そんなに荒涼とした土地ではないといいます。
私が大学生活を送った小樽は、まさにルドンにとってのペイル=ルバードでした。
東京や札幌のような軽やかさのない街で、結局、想像・空想の翼を広げて飛び回るより仕方が無かったのです。
そして、後から振り返ってみると小樽も決して眼に快いものが何もない土地ではないです。
医大に行けなかった挫折感や華やかな東京・札幌が好きだった自分にとっては、小樽は寂寥感の感じる街だったのだと思います。
ルドンと私とダヴィンチは空想したイメージが驚くほど酷似しています。
だから、私はルドンとダヴィンチの生まれ変わりだと信じています。
もちろん、その物理的・科学的なな証拠はどこにもありませんが。
高校時代に医学の道に進むことを熱望し、その前も理系だったので工学部に進学するつもりだった私。
あれほど熱望したのも死体の解剖に熱中し、飛行機やヘリコプターの考案にも熱心だったダヴィンチの生まれ変わりだったからではと思うのです。
今、私はコンピュータのプロフェッショナルで札幌WEBプログラミングスクールを経営していますし。
つまり、文系・理系どちらかに偏っている訳ではなく万能型なのです。
さらにルドンやダヴィンチは音楽に詳しく優れた演奏家で、特にルドンは
「深い教養と音楽に対する才能に恵まれ、親しみやすく親切な性格の彼は、象徴派の世代の理想像、いわば我々のマラルメであった。」(『近代絵画史(下)p6 中公新書 高階秀爾 著)
とモーリス・ドニに称されましたが、私も熱狂的なロック・ミュージック・ポピュラーミュージックファンで、絵を描く人間でこれほどの音楽好きは私以外いないと思います。
実はここにルドンがこの作品の題名を『レオナルド・ダヴィンチ礼讃』とした理由があるのです。
音楽は、特に詩の無い音楽は聴くものそぞぞれに異なった色んな空想を喚起します。
ルドンは音楽のこの性質を『暗示の芸術』と呼びました。
そして、自身の作品も
「はっきりとある特定の事柄を指示さない、観るものに様々な空想を喚起する暗示的な芸術である」
と言いました。
そして、暗示的芸術で歴史上最高の作品を制作したのはレオナルドだと言っています。
「暗示の芸術は、神秘的影のたわむれと、心理的に考えられた線のリズムの助けを借りなければ、何もできません。
ああ、レオナルドの作品、あれほどその結果を高く高くあらわしたものはありません。
あの最高の天才は、形の芸術全体を支配しました。」(『私自身へ』みすず書房 p27)
モナ・リザほど人々を惑わせ、個人によってまったく異なった空想・想像を喚起し、モナ・リザが何を表現しているのかという物議を醸させた作品はないからです。
ルドンのように、これほど絵画の音楽的効果について熱望する画家は他にはパウル・クレーとワシリー・カンディンスキーがいるだけです。
だからこそ、私はオディロン・ルドンとレオナルド・ダヴィンチの生まれ変わりであると信じているのです。
私はどんな理由で北海道に生まれ変わったのか?
生まれ変わった理由は、日本画の絵具と日本の美術に、日本人に生まれ変わって日本人の感性でより深く入っていって理解したいと思った事。
ただし、完全に日本に没入するのではなヨーロッパの感性も保ったままで。
だから日本のヨーロッパといえる北海道に生まれるように計画したのでしょう。
さらに、前世では富裕な実業家を父に持ち、生涯の途中まで生活費の面倒をみてもらった事への不愉快さを解決するため。
今世では実業家としても生きて、自立して画業も続けることに挑戦するため。
そして、コンピュータの時代に生まれ、デジタル表現と絵画の音楽化をより追及するためだと感じています。