最初に描いた油絵 薔薇
最初に描いた油絵 薔薇

 高校2年生の時に、人生最初の油彩画を描いていた時に、なぜか高校校長の講話が想起されその校長の話を酷く空しく感じました。

 高校は進学校だったので講和の内容は当然ながら「諸君より良い大学に努力して合格するように!」といった内容です。

 その後、絵が会心の出来だった時に、このようなすっきりとした精神状態、カタストローフの感覚が得られ、その後の制作でもいつもこの感覚を求めて油画を描くようになりました。

 なぜなぜ、そのような感覚を感じるのか?については当時の私には判然とは理由が分かりませんでしたが、漠然と

 自分は「芸術と比べて、世の中の既成の価値についてあまり魅力を感じていない」のではないか?

 と感じていました。

カンディンスキー 『モスクワ赤の広場』
カンディンスキー 『モスクワ赤の広場』

 大学時代にワシリー・カンディンスキーの著書、『回想』を読んで

 「大学時代、経済学や法律学などの学問の全てが好きだったが、芸術に初めて接するやたちまち色あせてしまった。

 芸術のみが、私を時空の外に移し変える力を備えていたのである。

 学問的な研究は、決してこうした体験、精神的緊張、創造の瞬間を与えてはくれなかった。

 という文章を見つけた時、これは同じ体験であると驚きました。

 結局、私とカンディンスキーの気質はよく似ており、共に芸術至上主義者であるということなのでしょう。

 このような体験から高校時代は「何か生命感にあふれたものを創造したい」と漠然と考えていました。


人間が求めるもので、芸術以上に価値あるものはないのではないか?

 校長講和に虚しさを感じたように、今の国会でのキャリア官僚の米搗きバッタのような情けない答弁を見ていると

 「無駄な事をやっているなあ」

 と感じます。

 局長だの事務次官だのになっても、歴史には名前も残らない。

 その後、天下って高収入といってもそれで何が買えるのか?

 権力といっても辞めてしまえただの人で、死ぬときには持っていけない。

 もう少し、自分が死ぬまでに何を手に入れられるのか?

 何を欲しいのか?を考えたら良いと思うのですが。

 結局、彼はもと通産官僚だった宮本融さんがラジオで言った通り「役人はみな平人。どこにでもいる普通の人間」なのでしょうねえ。

 いずれにしても誠に高校教員と教育ママゴン推薦の進路というものは当てにならないと思います。

 C・G・ユングは著書の『自伝(下)』でこう書いています。

 「決定的な問は、自分のしていることが永遠で無限なものと関係しているか?ということである」

 神の手を持つ外科医『 福島孝徳』のような脳外科医に憧れて医学部をめざすも不合格となった私は、進学した商科大学で画家をめざすことを決意するわけですが、その時も、

 「大企業のサラリーマンなどの、どこにでもいる無名の人間になりたくない。」

 という強い気持ちがありました。

 もし大商社の重役などになれても、世間一般の人には名前も知られず何年かに一度の人事で退職していくことに、やはり相当な空しさを感じるだろうと思ったのです。

芸術とは遊びある。生まれてからビートの虜(トリコ)ならぬ美と創造の虜!

 長年、美術と芸術について思案してきましたが、結局のところ芸術とは何かの表現であり遊びなのです。

 ロジェ・カイヨワの言う『聖俗遊』の遊びという意味も含めての遊びです。

 美術にまったく興味がないという、如何にも実利一辺倒で教養のなさそうなオジサンでも、本人は自覚していないでしょうが生まれてからずっと美の虜であり、毎日美を熱望しています。

 愛人を囲おうとしたり、魅力を感じる情勢を口説き、かなわなければ強姦までする

 そこまでするのも女性が美しく見えるからです

 女性は女性で、自分の顔にメスを入れさせてまで美しくなろうとする。

 女性が化粧とダイエットに熱心なのも、『男がいかに美人を求めるのか?』を痛感しているからですよね。

 だから、人間は美の虜であり美を死ぬまで熱望する存在です

アートとは表現であり、絶えず思考の壁、殻を破壊し前へ前へ、外へ外へと広げていくことです。

 そして美術という文字は『美を実現する術』と書きますが、美術が実現するものは美だけではありません。

 丸木夫妻の原爆の絵は美を表したものではないでしょう。

 美術や芸術は自由です。

 何を表現しても良いし、何を作っても良い。

 あらゆる異分野のものと結びつかせても良い。

 この制作と表現の自由に決定的な分水嶺を与えたのが マルセル・デュシャンです。

デュシャンは作品『』と大ガラスによって

 「アートは絵画だけではない。アートはどのようなものであっても良い。

 と人々の固定概念を吹き飛ばしたのです。

 ゆえに、この30年で世界のアート界は何でもありのお花畑状態になりました。

 アートとは絶えず思考の壁、殻を破壊し前へ前へ、外へ外へと広げていくことです。

 デュシャン革命によってもたらされた、この自由で広い世界。

 一度、この世界に足を踏み入れて、あらゆる異分野のものを取り込んだ革新的な作品を作るという創造の快楽!

 あらゆる魅力的なものを空想・想像する快楽を味わってしまうと

 医学だとか事務仕事だとか法律の実務だとかの勉強や仕事は無味乾燥でやってられなくなります。
 
 つまりは美術の魔力に囚われると後戻りは不能ということです。

生まれる前からアートのトリコ。創造への熱望が『止まらない Ha~HA~ !!!』

 

矢沢永吉 『止まらないHa~Ha~』
矢沢永吉 『止まらないHa~Ha~』

矢沢永吉の『止まらないHa〜Ha』という曲の詩につぎのような言葉があります。
 
 『止まらない 離れない 生まれてから ビートの虜

 この俺に とり憑いた
 
 悪魔でも 天使でも Baby Wanna Rock'n Roll
 
 絡みつくような 鎖なんて すてちまえ!!!

 このビート、美は矢沢がいうように天使ではない。むしろ悪魔の顔をしています。

 だからこそ、芸術や学問・知への熱望・因業をデーモン(悪魔)と呼ぶのです。

 この悪魔に心臓を掴まれた人間は、それをかなぐり捨てて生きる自由がありません。

 それはゴッホゴーギャンを始めとする画家たちがいかに悲惨な生涯を送ったかを考えればお分かりになるでしょう。

 カンディンスキーが言うように

 「画家は人生において幸運児ではない。画家は苦しい制作作業をへて自己の作品を制作する人生を拒否できない。」
 
 というのは未だに真実でしょう。

 しかし、時代は現代美術を求め、環境保全こそが最大の課題となっています。
 
 西洋人がキリストの代わりにカリスマとして崇めている金と経済という名の物質。

 西洋文明の2つの柱ヘブライズム=キリスト教ヘレニズム=ギリシア以来の科学ですが、これを人類が推し進めた結果、地球は後数年で崩壊しそうになっています。

 人間はこの白人文明の代わりに芸術という認識への活動、エンターテイメント、アミューズを中心価値とすべきではないでしょうか?

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