平和の少女像

 前回記事の 『現代美術って何?どんな価値があるの?世界一わかりやすい現代美術の解説【No.3】』では、「芸術は観る人に問を投げ掛け議論を巻き起こすための装置である」ことについて詳しく解説しましたね。

 今回は、この特性を先に話題となった名古屋市で開催された『表現の不自由展』への展示反対運動に当てはめて考えてみたいと思います。

教養って何だろう?それは装置としての芸術を知っているかどうか?である

今回の騒動を招いたのが、多くの日本人に従軍慰安婦を表しているとみなされている韓国の彫刻家である金運成(キムウンソン)、金曙〓(キムソギョン、〓は日の下に火)夫妻『平和の少女像』と、「天皇の肖像が燃やされた」と批判をよんだ大浦信行の《遠近を抱えて Part II》、そして会田誠の「文部科学省にもの申す」という垂れ幕作品の『檄』です。

 この『平和の少女像』は実に良く出来た芸術作品だと思います。

 なぜなら、人々の議論を巻き起こしたからでが、この作品は済州島、ソウル、日本大使館前、ニュヨーク、ホーチミン、名古屋の美術館と置かれる場所によって意味と巻き起こす議論や批判が変わるからです。

 この作品は、作者の手を離れて独立し最初の場所に設置された時から生き物としての芸術作品・アートとしての働きを始め、作者の制作意図を越えて様々な意味をにない反響を巻き起こして来ました。
 

ベトナム・ピエタ 写真
ベトナム・ピエタ

 どだい、金夫妻は「ベトナム・ピエタ」という韓国軍による民間人虐殺に抗議する彫刻も作っており、日本人だけを批判している訳ではありません。

だからこそ、なおさら多様な意味が創出されるのです。

 優れた芸術作品・アート作品はモナリザがそうなように、多くの余白・白紙の部分があって、それが色々な人々の様々な意味の投影を受入れ余地となっています。

 芸術作品が様々な意見を巻き起こすので、そこで意見を異にする人同士が論争することで、作品の登場前の認識が登場後に変化し理解が深化することこそ芸術作品の価値なのです。

 これは民主主義の価値と同じです。

 「議論では激高して口から泡飛ばして良い。しかし、手は後ろに回しておけ。」

 というのがイギリス、フランスで生まれた議会制民主主義の精神(エートス)です。

河村たかし 表現の不自由展への抗議 ところが『表現の不自由展』に対して激しく異議申し立てをした河村たかし名古屋市長は、不自由展の出品作の意味を「歪曲された歴史認識を持った人間による日本民族への蔑み(さげすみ)、攻撃である」と決めつけ、

 「作品を展示するな!」
 
 と暴力による展示室からの強制排除を主張したのです。

 つまり、河村市長らには『芸術作品は人々の議論を巻き起こし、新たな気付きさせるための装置である』という認識がないのです。

 河村市長同様、展示に反対した橋下徹や三浦瑠璃らの発言を調べると、明らかに現代美術や芸術を勉強した経験を持っていないことが見て取れます。

 三浦瑠璃の橋下徹との対談での三浦の

 「結局のところ、日本のアーティストというのはほとんどが左翼で、私のように国際政治や戦争を研究しているというだけで非難をする偏向した世界だし、現代美術の作品には今回の展示のようなものはいくらでもある。」

 という発言は現代美術にある程度詳しい人間なら、誰でも「はあ?あなたまったくのど素人だね」とわかる虚言で、笑止千万ものの発言です。

 それに、したり顔で合図地を打っている橋下徹もしっかり無知をさらけ出しています。

 結局、この人たちには紳士なら持ち合わせているべき『教養』が身についていない。

 つまり無教養なわけです。

 それが芸術だけでなく民主主義というイデオロギーへの無知でもあるわけです。

 最も先にサイコパスであるという精神科医への主張に名誉棄損で起訴して2審の大阪高裁で負けた橋下徹にすれば、話の真実性や裏付け、民主主義もどうでも良いと思っていることでしょう。

 橋下が会話で都合が悪くなると、人の会話に大声で話をかぶせるのは暴力であり、暴力の肯定です。

 このようなジョルジュ・バタイユネクロフィリア(死体性愛)的な態度は、それすなわち今全世界的に急激に高まって来た全体主義・ファシズム志向です。
 本物の芸術とはこのファシズムと暴力へのレジスタスです。

 ヒトラーが当時ドイツ美術界の2大スターだったワシリー・カンディンスキーパウル・クレーの2人の作品を『退廃芸術』とネイミングして蛇蝎のごとく嫌ったことと、今回の展示拒否事件は酷似していると言えるでしょう。

ョンレノン 殺害時の血の付いた眼鏡
ョンレノン 殺害時の血の付いた眼鏡

 ピカソゲルニカローリング・ストーンズギミー・シェルタージョンレノンハッピー・クリスマスボブ・ディラン風に吹かれてのように。

 ヒトラーは画家としては落ちこぼれであり、いわば負け犬で能力的に劣性であった。

 だからこそ、同じ負け犬として深い劣等感を感じていた国民には英雄と映った。

 ヒトラーの代わりにカンディンスキーが政党を率いてもヒーローにはなれなかったでしょう。

 学校秀才の優等生に引け目を感じている劣等生のちょい悪不良少年は優等生にはシンパシーを感じられないからです。

 これはトランプ信者にも、大阪の維新支持者、橋下徹ファンにも当てはまる法則だと思います。

 

 

 

 

 

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