芸術は観る人に問を投げ掛け議論を巻き起こすための装置である
【No2】では「芸術は作者がある意図を持って制作した表現である」と書きましたね。
実は、芸術にはさらにもう一つの性質があります。
それは 「芸術は観る人に問を投げ掛け議論を巻き起こすための装置である」
というものです。
【No1】でマルセル・デュシャンの『泉』が現代美術の起源であるとお話しましたね。
この『泉=金隠し』はデュシャンが作ったものではありません。
工業製品です。アートの作品ではデュシャンが作品として主張した工業製品をレディー・メイド(既製品)と呼んでいます。
この泉は美術界に賛否渦巻く喧々諤々(けんけんがくがく)の論争を巻き起こします。
そして、時間が経てば経つほど、アート業界やアーティスト志望者の意識・認識・思想が変わっていったのです。
「現代美術・アートは人間に、頭の使い方を教えてくれるものである。既成概念にとらわれずもっともっと自由でいいんだ」と。
暗示的芸術は音楽と同じくはっきりしない、説明のない世界であり、一つの暗喩です ルドン(注1)
芸術は表現ですが、これは鑑賞者や人々に良い方向に変わってほしいと意図して行うわけです。
これは民衆への教育ですね。
仕掛け・装置としての作品も、人々にそれまで気付かなかったことを気付かせる働きを持ちます。これも教育効果なのです。
しかも、作者の「こう変わってほしい」という意図を越えて、作品は発表された時から一人歩きをはじめ人々の反応と認識が作者の予想を越える思わぬ方向に変えることも多いのです。
いえ、むしろそういう事態を引き起こす作品ほど優れているといえるのではないでしょうか?
モナ・リザが巻き起こした作品の意味、価値への大論争は恐らくダ・ヴィンチが知ったら驚嘆する事態なのではないでしょうか?
これほど異なった意見・主張を喚起した作品は歴史上ありませんよね。
オディロン・ルドンが「暗示的芸術は、神秘的な影のたわむれと、心理的に考えられた線のリズムの助けを借りなければ何もできません。ああレオナルドの作品、あれほどその結果を高くあらわしたものはありません。」
(『私自身に』 オディロン・ルドン みすず書房 p26)
と書いているのは、この事を指摘しているのです。
芸術家は民衆の教育者である!!!
精神分析医のC・G・ユングは芸術家の責務は教育であるといっています。
ユングは、言葉で直接表せば権力者や民衆の怒りを買う主張を、芸術作品のみが怒らせずに気付かせることが出来るといいました。
「芸術家の責務は人類の未来に関わるので重大である」
と言っています。
この言葉がストンと腑に落ちない場合は、チャップリンの映画『独裁者』やジョン・レノンの『イマジン』と思い浮かべると納得できるのではないでしょうか?
マルセル・デュシャンは『泉』に続く作品でも、スキャンダルを起こしていきました。
その最高傑作はが通称大ガラスと呼ばれる『彼女の独身者たちによって裸にされた花嫁、さえも / The Bride Stripped Bare by Her Bachelors, Even』ですね。
この作品は、千住博がベネチアビエンナーレで名誉賞を受賞した時のコミッショナーだった美術評論家の伊東順二さんが、20年ほど前、NHKで正月2日間通しで放送された、美術の過去の名作を紹介した番組で、美術史上の最高傑作に選んだものです。
理由は、今回の記事で私が主張したのと同じ理由です。
◆続きは【No4】で
※注1 ルドン 『私自身に』 みすず書房出版 p29から抜粋