今は札幌情報未来専門学校という名前になった、当時札幌1、2で生徒数の多かった札幌ソフトウェア専門学校の担任として、私はやり手だったのですが、ある女性にふられたのがきっかけで(ふられたというほどつき合ってもいなかったのですが・・・・)
「結局二兎追うものは一兎も得ずだ。
画家になりたいならピカソやゴッホのように職を辞して画家をめざさなくてはいけない。
そうでないなら、結局結婚もうまくいかないだろう」
と決心し専門学校を退職してアルバイト生活を始めます。
調度、あの土地バブルがはじけて2年後位の時です。
最初の1年は、勤めていたプログラミング専門学校の非常勤講師を勤めていました。
2年目は全国ネットの大手学習塾の教室長。
この会社の北海道支部長の中村さんという往年の名レーサー星野一義に似たイケメンの関西人の方が私を偉く可愛がってくれました。
「画家をめざすなんて俺には出来ない事。素晴らしいやないか?
ええか、生活は保障してやる。
俺はお前が好きなんや!これは大切なこと。
俺も社長に目を掛けられ、可愛がられたから今がある。
俺と出会ったことが横田の人生の一生の幸運や。
ターニングポイントやな。」
この言葉が1年後に現実になります。
担当していた個別指導の札幌、月寒東教室の生徒が思うように集まらず、教室を閉める事になり、通っていた生徒18名と教室の店舗ともにそのまま個人塾『横田進学教室』として譲り受けることになりました。
私は一夜にしてアルバイトから個人事業主になったのです。
教室経営はほぼ順調にいき、週4日は絵画の研究と制作にあてることが出来るようになったのです。
それと同時に今の妻と知り合い結婚することになりました。