今回は日本で最古の現代美術画廊、東京画廊とおよそ30年前の日本画壇の勢力図について、私の実体験に基づいて解説したいと思います。

 東京画廊は古美術商である平山堂商店に勤めていた山本孝さんが、1948年に東京画廊の前身となる数寄屋橋画廊を銀座に設立した後、のちの南画廊のオーナー、志水楠男とともに1950年に東京画廊を創業します。

 その後、志水楠男は東京画廊のライバルとなる南画廊を創業します。

 私が大学生の頃、現代美術家にとって東京画廊で企画展を開くことは最高のステータスでした。

 東京芸術大学卒などの現代美術家の多くはどちらかの画廊に所属していました。

 残念な事に南画廊の清水さんは若くしてこの世を去ります。

 資金難による自殺と伝えられています。

 私の大学時代の日本画壇の勢力は以下の通りです。

1995年前後の日本美術界の勢力図

 当時はまず、日本画が昔からの熱心な愛好家からの需要により全盛で、東京芸大学長の平山郁夫をトップとして東京芸大、多摩美術大学、武蔵野美術大学日本画学科の卒業生が、学校時代の指導教官が所属する日展、院展、創画会のどれかに出品し受賞を得て会友、会員となっていきました。

 会友ともなれば、少し大きな作品は一千万円で売れ、平山郁夫の作品はバブル前で1億ともいわれました

 何人もの人から、「3団体の入選と受賞、会友、会員への推挙が、大学での縁故であり、会友になるのに師である教授の絵を何百万円で購入しなければないない。そのため親が土地を売ったりする。」と聞かされました。

 これらの縁故主義を早々に嫌ってアメリカに留学したのが村上隆です

 洋画壇でも事情は似ていましたが、日本画のように熱心なコレクターがいなかったため、洋画の多くは高値では売れませんでした。

 中心はやはり公募団体で、国画会が中心で、それに新制作協会、さらに東京芸大卒でスター的な存在だった絹谷幸二がいた独立美術協会が有力団体で、会友、会員になるルートは日本画とほぼ同じです。

 ただし、こちらはお金が絡むとは聞いていません。

 国画会会員の島田章三と大沼映夫が、東京芸大でも油画科の教授をしていました

 二人は婚姻関係により縁戚となっていました。

鴨居怜 老人
鴨居怜 『出を待つ(道化師)』
 彼らの作品を販売する画廊の中心が今でもそうですが日動画廊です。(※写真は日動画廊取扱い画家だった鴨居怜の作品。)

 20年ほど前、日動画廊で社員の方に鴨居さんの作品を別室で見せていただいたことがあります。

 社員さんが言うには「元々は師である宮本三郎の画風を継承した人で、この表現スタイルで進んでいくのは無理があったと思いますよ。」とのことでした。

 鴨居怜は洋画壇の登竜門である安井賞と日動画廊の賞で同じぐらいの権威のあった昭和会賞を同時受賞した、BMWが大好きな、二枚目が自慢の売れっ子画家でしたが、57歳で自殺されました。

 社員さんに、「どんな人が購入するのですか?」と聞いたら「大企業の重役が多いですね。夜中に社長室の別室などでしみじみ観るのだそうです。」と言われました。

 私は「これは、政治家や重役の人の自画像であると?」というと「そうでしょうねえ、まさしくそうです」と言っていました。

 鴨居怜の肖像画って今話題のジャニー喜多川そっくりではないでしょうか?

 ここまで読まれて、どうです?画家志望の若者がなぜ東京芸大をめざすか?その倍率がもの凄く高いのか?少し察しがつきましたか?

 35歳で、プログラミングの専門学校を辞めて本格的に画家を目指し始めた私が東京画廊と知り合うきっかけとなったのが、日動画廊と島田章三なのですが詳しい話は私のメールマガジンに書いてあるので是非ご登録ください。

 このような流れが変わったのは、まず海外で『新具象画』という自由に具象画を描くムーブメントが一気に爆発的に広まったことがあります。

 また、シンディー・シャーマンなど、誰かに成り代わって写真に収まったりする『シミュレーショニズム』の作品がアメリカで流行し、それをパクったと思われる福田美蘭さんが安井賞始め国内の賞を総なめにしました。

 コンテンポラリーアート(オブジェ=彫刻のような物としての作品などを作る、より現代美術ぽいアート)では曽根裕さんが同じような勢いでした。
 
 さらに、VOCA賞展という美術評論家などが推薦された現代美術作家が出品する登竜門展覧会ができて、有望な画家が西村画廊などの有力な現代美術ギャラリーにスカウトされていったこともあります。

 ※シミュレーショニズムについては『こちらのページ』をご覧ください!

 1995年にはアメリカ志向だった東京芸大日本画科卒の千住博氏が滝の絵でベネチアビエンナーレで受賞しました。

 受賞作を札幌で観た私は『凄い画家が出て来たな。まるでR32型スカイラインGT-Rの登場みたいだ。やっと自分のライバルになる画家が現れて張り合いが出て嬉しい!』と感じたものです。

 この頃、今は伝説となっている江東区食糧倉庫ビル小山登美夫ギャラリーが創業し、村上隆と奈良美智を国内やアートバーゼル・マイアミなどで売り始めました。

 さらに東京大塚でタカイシイギャラリーが創業し、青山でミズマアートギャラリーが創業し会田誠を売り出していきました。

 これらのことが重なって、なんと、日本でも現代美術が売れてそれで生計が成り立つようになってきたのです

 私が画家を目指した大学生時代は、現代美術でお金を儲けたいというのは、絵空事の夢物語でした

 有力なギャラリーと契約していたアーティストで、今は一千万円単位で作品が売れるようになった人でも、千住博以前はギャラリーに個展を開いてもらっても作品が売れなくて1円も貰えなかったことも少なからずあったようです。

 東京芸大や多摩美術大学、武蔵野美術大学の在校生には教官や在校生、ギャラリストなどから最新の業界情報が集まります。

 先輩の活動状況も東京ならなおさら伝わってくるし、会田誠さんのように三瀦さんと知り合って見出されるようなチャンスもあります。

 当時、東京芸大卒の福田美蘭さんが雑誌で「私の周りを見ても意見を聞いても、公募団体に出品するメリットは何もないと全員言っていますから」と言っていました。

 当時、有力団体のひとつだったモダンアート協会の会員の人が「絵で食っていこうなどという芸大、美大卒の人は公募展になんか出品しませんよ。」と電話で教えてくれました。

 つまり彼らが大学在学中にすでに国画会の画家と日動画廊が中心となっていた保守派、日本画壇を見限っていたのことが、潮目が変わった要因として一番大きかったと思います

 結局この流れで、私も予想した通り、保守画壇は衰弱し安楽死した。というのが今の状況です。

経営状況で停滞期に入っていた東京画廊

 1999年に最初にお会いした時の東京画廊は、経営が非常に厳しい状況だったと思います

 山本さんと最初にお会いした時から数年後、2回目にお会いしにいった時だったと思いますが、他の画廊にもポートフォリオを持ってアポなしで営業回りしたのですが、偶然、佐谷画廊が銀座の家賃の高さで経営が苦しくなったということで閉廊するその日に、偶然画廊に飛び込んで、創業者の佐谷さんに色々とお話を伺いました。

 しばらくして、西村画廊も同じ理由から虎ノ門に移転しました。

 村上隆や奈良美智の活躍もあってだと思いますが、しばらくして欧米の関係者が空前のアートブームにより、欧米人が

「日本特有の現代美術が村上・奈良以前に存在したのではないか?」

と興味を持ち始め、日本人も含めて色んな人が欧米で東京画廊の『具体美術運動』と『もの派』を紹介する展覧会を実施して『具体美術運動』と『もの派』の作家が注目され始めます。

 東京画廊の山本豊津さんは、その世界での再評価に乗りアートフェアへ積極的に出店するようになり、海外と日本で存在感と影響力を増して行きました。

 東京画廊エースの李禹煥(リ・ウーファン)さんが、村上隆に続いてベルサイユ宮殿で大個展を開き、一枚数千万円の値が付く国際的なスターとなっていきました。

 気が付いたら、東京画廊は日本のトップギャラリーになっていたという訳です

 そして私も山本豊津さんの毎回の親身なアドバイスのお陰で心挫けることなく、世界トップレベルで通用する画風と実力を身に付けることができたのです

 山本さんにも今回お話しましたが、小椋佳さんの『愛燦燦』ではないですが「人生って分からないものですねえ。」と今つくづく実感しています。

栄枯盛衰と下克上は世の常

 私はもう還暦を過ぎていますが、仏教学者の鈴木大拙が「長生きしたほうが良い。世の中の色んなことがわかるから。」といった通りこの歳になると、若い時に華々しく世に出て注目された人が、脚光を浴びなくなるのを、芸能界やTV業界、アートの世界で何人も見て来ました。

 あれ程もてはやされた島田章三や大沼映夫は、今の若い人は名前も知らないし、話題になることもない。

 千住博さんがNHKの世界のアート事情を紹介する特集で解説をして、当時ボブ君のキャラクター戦略で必死に売り込んでいった村上隆を

こういう一般商品のブランドとい概念をアートに持ち込んで注目を浴びようという戦略を取っている人もいるんですよ。」

と余裕で解説していました。

 その数年後、ベネチアビエンナーレで受賞を逃した村上隆は会場での美術手帖記者のインタビューで「えっ?受賞逃して残念ですねってこと?もういいよね、ベネチアは。帰ってGEISAIをやるのがよいとわかったよ。というかどうしてここが世界アートビジネスの一丁目一番地ってことが分かんないのかなあ?」といっていましたが、その後あっという間に一気に世界のベスト10に入るアーティストになって行きました。

 千住さんは、名指しはしませんでしたが著書で「日本のアニメのアイロニーのようなまがい物アニメ作品をわたしは絶対に認めない」といっていましたが、高速で抜き去った亀の勢いはさらに増すばかり。

 ですから、人生って本当に分からないものです。

 今、苦しい、恵まれないという事は、必至で努力すれば未来は素晴らしくなるよ!ということではないか?

 これが、私が生きてみての感想です。

 大切なのは苦境で愚直に、真剣に必死でもがくこと。未来を信じて決して諦めないことです。

 自殺未遂をしたほとんどの人が「あの時死ななくて本当に良かった!」というのは、こういう意味です。

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