私が画家を志した理由 『私にはもう絵しか残っていないから実現せねばならぬ。』

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『私にはもう絵しか残っていないから、実現せねばならぬ』 ポール・セザンヌ

サントヴィクトアール山 写真
 後期印象派の画家、ポール・セザンヌは、若い頃から画家をめざすも画壇からは無視され、ようやく50代の後半に、後にピカソをも見出した画商アンブロワーズ・ヴォラールがピサロの助言で企画展を開いたことなどから、急激に世界的な名声を得ていきます。

 彼のこの謎めいた言葉は

 「私の古里南仏、エクス=アン=プロヴァンスのエクス=アン=プロヴァンスを望む壮麗に美しい風景、その風の音、風に揺れる木々、青く澄み切って高く突き抜けるような空、深い緑と対となった赤土の山肌を、詩情豊かに彫刻や大建築物のように雄大に、音楽のように躍動的に描き切りたい。そのような詩情あふれる作品を実現(リアザラシオン)したい。」

 と言う意味でしょう。 それはまさにセレナーデです
 
 このセザンヌの言葉には目的語がありません。大学時代にこの言葉を知った私は、セザンヌが何を実現したいのかまったく意味が分からず、小林秀雄の『セザンヌ』にその解説が書いてあったので読んだのですが、これがまた難解極まりなく、何度も熟読し、思索を廻らし、ようやくセザンヌの作品の魅力とともに理解できたのです。

 エクス=アン=プロヴァンスの風景は、プロバンス駅を降りたつそこはまさにセザンヌの風景画の世界で、言葉を呑むほど美しいと『セザンヌと過ごした時間』を制作したダニエル・トンプソン監督は言います。
 映画『セザンヌと過ごした時間』

  大学2年生の私の心情はまさにこの言葉と同じで、今私はセザンヌが名声を得たとほぼ同じ年齢となりました。

目次

  1. 幼少期・・・僕は絵の天才少年 なぜか生まれつき絵が上手い
  2. 小学校・・・あっという間に描いていつも模範解答
  3. 中学時代・・・ロック・ミュージックに熱中する
  4. 初めて絵画に感動する  梅原龍三郎の『桜島 青』
  5. 生まれて初めて油絵を描く。工芸の先生に画家を志すように諭される
  6. 医学部受験に失敗して失意のうちに小樽商科大学に入学・・・私にはもう絵しか残されていない
  7. 画家になることを決意 絵を観ると音楽が鳴る!カンディンスキー抽象画の衝撃!
  8. 3部作の小説を書く・・・ユングのアニマ理論を一人で思いつく
  9. 大学卒業後はプログラミング専門学校の担任に
  10. 東京画廊の山本豊津代表との出会い・・・そのあなたの鑑識眼を大切に育てていきなさい
  11. あなたの画風を確立しなさい
  12. 村上隆と君の差は、明日倒れても歴史に名前と作品を残そうとするぎらついた欲望があるかどうかだけだ!
  13. リーマンショックで制作を一時中断
  14. 『ハングリーであれ!』 今、ステーィブ・ジョブズのように全ての点が繋がり面となった!
  15. 加速度的に滅びていく地球で、私はまだ人事を尽くしていない

幼少期・・・僕は絵の天才少年 なぜか生まれつき絵が上手い

 私は2歳か3歳の、もの心がついた頃には毎日絵を描いてました。生まれ育ったのは北海道の旭川、旭山動物園のふもとの東旭川という町です。

 小学校の教員だった父が用意してくれたB4版の画用紙にクレパスを使って大人顔負けの写実力で1枚数分から十数分というもの凄いスピードで毎日4枚から5枚は描いていました。

 画題は両親の顔、虎やライオン、象などの動物、花、鳥、新幹線、風景、零戦などの戦闘機、カブトムシやクワガタなど様々でした。
 絵画だけでなく、油粘土やプラスティック粘土で彫刻も作り、玩具のブロックで家や船、飛行機なども絵画同様に作っていました。

なぜ、毎日描いていたのかは分かりません。

 実際には手に入らないものや、観られないもの、体験したいものを疑似体験するためだったようにも思います。
 実は私は現在、自分がオディロン・ルドンの生まれ変わりかもしれないと信じていますが、今思えば前世でも画家だったので、生まれてすぐに死後の世界での計画通りに、絵を描き始めたのかもしれないと思っています。

 母や叔父に絵の上手さを褒められると「なぜか分からないけど、生まれつき絵が上手いんだよね!」と、ギタリストのチャーみたいなことを言っていました。

 この頃は虫取りがあまりにも好きなため、夏は毎日のように保育園を昼食後に帰宅させてもらい、午後からは虫取りをしていました。

小学校・・・あっという間に描いていつも模範解答。

小学校3年生で描いた絵

 保育園の時もそうでしたが小学校の図工の時間では、あっという間に課題の絵や版画を描いてしまうので、完成するとすぐ担任が模範解答として取り上げて黒板に貼るのです。

 「横田君の絵です。上手いでしょう!このように描きなさい!」

小学校6年生でもらった受賞盾

 後の時間はする事がなく、いつも教室徘徊して他の子の絵を観たりしていました。

 父は同じ小学校の国語の教師だったのですが、小学校を卒業するまで、図工の教科担任の先生全員に

横田先生、これだけの才能は惜しい、なかなかいませんよ。是非、画家を目指させて下さい。」と進言されていました。

 毎年必ず、旭川市の小学生展覧会に入選しており、ご覧のようにいくつかの賞ももらいました。
小学校3年生の時には写真の絵で旭川市小学校絵画展の優秀賞、小学6年生の時には写真の受賞盾のように図工部会賞を受賞してデパートで表彰されました。

中学時代・・・ロック・ミュージックに熱中する

 中学時代も絵画ではやっぱり『変わらず受賞』していました。

 中学1年生でポール・マッカートニーのHI HI HIをラジオで聴いて驚愕を受けて以来、洋楽に夢中!

 この頃、クイーンとエルトン・ジョンがデビューし、彼らが世界的なロック・スターになるのをリアルで体験。
 音楽が時間とともに移り変わり、熱狂して踊り歌う事が出来るのに対して、絵は時間とともに動かないので、ひどくつまらなく感じました。
 音楽が『生きている』とすれば、絵画は『死んでいる』、このつまらなさが、『絵画の音楽状態を達成する事』を私のライフワークとしたのです。

 ちなみに、通学した旭川神居中学の2学年上の先輩には玉置浩二と安全地帯のメンバーがいました。
 
 玉置さんのお父さんと父は旭川市教育委員会で机を並べて仕事した仲で、安全地帯のデビュー前の事は玉置さんのご両親から少なからず聞いていました。

 父の旭川小学校での教え子には世界的な漫画家の寺沢武一さんもいます。 (注10)中学時代、そして玉木さん寺沢さんの想い出

初めて絵画に感動する  梅原龍三郎の『桜島 青』


梅原龍三郎 桜井島青の写真
 中1の時に、国語の教科書の冒頭に載っていた梅原龍三郎の『桜島 青』を自習時間に見入っているうちに、涙が出るように感動し、初めて『絵画も音楽のように観るものに感動を与えるもの』であることを悟ったのです。

 すぐに書店に行って梅原龍三郎の画集を買って来ましたが、梅原の作品は、北京秋天や富士山などどれをみても感動しました。

 この頃の画集の記述は、かなりいい加減なものでした。

 梅原龍三郎は北京滞在での制作中から最初はリンシードオイルで、後にアクリル系ボンドや膠で岩絵の具を練って紙に書くようになったのですが、画集には、作品で使用しているメデゥウムを油彩と書かれてるものが多かったのです。梅原はこの岩絵具の使用をでデトランプと呼んでいました。

 つまり、梅原の主要作品はどれも日本画なのですが、長くそれが分からず梅原のような感動的な絵を描くのに油彩で何とかなると思い酷く苦戦しました。
 油彩ではあのような色彩の透明度の高い絵は描けません。

生まれて初めて油絵を描く。工芸の先生に画家を志すように諭される


初めて描いた油絵の写真
 高校に入り美術を専攻して、生まれて初めて小学生の頃からほしかった油絵具セットを手にし、授業が始まる前の春休みに薔薇の絵を描きました。それと同時に美術部にも入部。
 高校2年の時に、教科の部活動で工芸部に入ってコーヒーカップを作っていた時に、工芸の先生に声を掛けられ

 「君は芸術の選択は音楽ではなく美術でしょう。観ただけで美術タイプだと分かりますよ。授業が終わったら工芸準備室に来なさい」と言われました。研究室に行くと

 「美術室にある制作中の大きな薔薇の絵はやはり君の作品でしたか。
 私は自分の美術教師人生の中で、たった一人でいいから天才画家を見出したかった。
 今日やっと見つけたよ。君なら必死に努力すれば必ず絵心がつかめる。ぜひ画家をめざしなさい。

高校1年生の時の写真  それと今後は美術部だけでなく工芸部にも入部して制作したらどうでしょう。」

と勧められました。

 その先生には何度も研究室に呼ばれ、いつも「あなたには素晴らしい才能があるから画家になりなさい」と勧められました。

 このアドバイスは私が画家を志すうえで、後々に強い影響を及ぼしていきます。

 しかし、その時は画家にはまったく魅力を感じられず、当時は何といっても財前五郎のような外科医、それも脳神経外科医か心臓外科医になりたかったので、工芸部にも入らないまあ、私は国公立の医学部をめざしたのです。

※写真は高校1年、宿泊研修でのものものです。右側が私です。

医学部受験に失敗して失意のうちに小樽商科大学に入学・・・私にはもう絵しか残されていない

 国立の医学部には2浪しても合格できませんでした。

 その時受験した旭川医大は、「2浪以上は合格させない」という情報が強くあり、予備校の受験指導の職員など、周囲からも他大学を受けるように勧められました。
 まさに、昨今の東京医大などの不正入試と同じ状況ですね。

 自己採点では合格できると思ったのに落ちたので、自己採点が間違っていたのかどうかを確かめたいと思い、軽い気持ちで、当時国立で2校だけ2次募集を実施していた小樽商科大学に願書を出したら合格してしまいました。

 入学する前、1浪で合格して半年ほど通って休学していた帯広畜産大学の畜産学科にも籍があり戻ることも出来たので、医学部をあきらめ進学するにもどちらの大学にするか非常に迷いました。


斎藤聖峰著 相性の神秘
 そこで、母も父との結婚を占ってもらった、斎藤聖峰という、ラジオとテレビでレギュラー番組を持っていた占い師に進路を相談しました。

斎藤聖峰さんは

あなたはなかなかの商才の持ち主で中年期に入ったら独立する運命にある。だから商大に行くと良い。

 さらに二家二業の運といって、両手にそれぞれ物を握っていないと精神が安定しない相である。実業以外に何か思い当たるものはないか?

と聞かれて「幼い頃から絵が得意でずっと美術科の教員に画家になる事を勧められて来ました。」と言うと

 「それだ!君は芸術性にも優れているから、実業の勉強をしながら絵画の才能を伸ばしていきなさい。2つの仕事が互いを補い合い良い影響を及ぼしていくだろう。」

 「画家として認められますか?それは何時ですか?」

 「認められる。何時かは分からん」

と言われました。この占断はその後の人生で、ほぼ完全に当たることになります。

ポールセザンヌの肖像画
この占いの結果も参考にして、文系の学部にはまったく興味が無かった私は、さんざん悩んだ末に小樽商科大学に入学します。

 それまで医者になる事しか考えていなかったわたしは、入学と同時に激しく自分の進路に迷い、1年間考え抜いたうえで、画家になる事を決意します。

 それはポール・セザンヌの「私にはもう絵しか残されていないから、実現せねばならぬ」という言葉とまったく同じ心境でした
(画像はセザンヌの自画像です)

画家になることを決意 絵を観ると音楽が鳴る!カンディンスキー抽象画の衝撃!


 画家修業の手始めに、まずは「美術そして芸術とは何か?」を知りたい、「美術の歴史という樹木の、太い幹に当たる部分を受け継ぎ、次の時代に繋げる仕事をしたい」と思い、高階 秀爾著『西洋美術史』フロイトの『精神分析入門』から探求を始めました。

 そうやって卒業までの5年間に読んだ様々な分野の専門書はダンボール20箱以上なりました。

 高階 秀爾『西洋美術史』によって、すぐに抽象画の創始者ワシリーカンディンスキーとパウル・クレーを知ります。

 カンディンスキーの『分割と統合』という作品を観た時には衝撃を受けました。(左上写真)

 「この作品は世に存在しないものを描いている』と感じました。

 この作品を画集で観た時、観ると同時にクラフトワークの電卓という曲が頭の中で鳴り響き、そのテンポに合わせて画面が時計のように小刻みに右に移動していく映像が鮮明に脳裏に写し出されました。

 恐らく、私もカンディンスキーも強い共感覚の持ち主なのでしょう。

 絵画を観てれば音楽が鳴り響き、音楽を聴けば映像が脳裏に写し出される。

 この出来事の後2年ほどして不思議な夢を見ます。
 
 その夢を描いたのがこちらの作品『オアンネスが苛立って放り投げたミュージックブック』です。注3

 この体験は、画家を志す前のカンディンスキーが、モネの積藁の絵を展覧会で観てから、夢の中に積藁の絵がありありと出てくる体験を何度もしたこと酷似しています。

 カンディンスキーが当初、この夢が何を示唆しているか理解できなかったように、私もこの体験が何を意味するかが長く分かりませんでした。

 しかし、やがてカンディンスキー同様私も『絵画が音楽的と同様のより人を感動させる効果を持つ事を追求する運命』を持って生まれてきたことを悟ったのです。

3部作の小説を書く・・・ユングのアニマ理論を一人で思いつく

 大学2年生の時に、兎に角大学生活から抜け出したいのと、卒業後に一サラリーマンとして暮らすことにプライドが許さず、絵画より小説のほうが制作しやすいとその当時は思えたので、小説家になろうと3部作の小説を書きました。

 まずは小説家として有名になり、その名声を利用して画家になろうという思惑でした。

 題名は『疑惑・恋人・女神』。(注1)

 内容は、現代に生まれた救世主である大学生が、次々と魅力的な女性と交際し最後に死後の世界でも妻だった女神のような女と結婚するというもの(注2)

 制作している途中で、とうとう妄想に囚われて、一時期、現実と妄想の区別がつかない精神状態になりました。
 その状況は夏休みにある事件があり、自分が妄想に囚われている事に気付き、正常な心理に戻りました。

 この事は、自分の精神の正常性へのプライドを酷く傷つけ、自分は精神分裂病、あるいは境界例ではないか?と強く疑うようになりました。
 それで、その後何年もユング心理学や精神医学の専門書、各種芸術書を数多く読み漁り自分で精神の病を治そうとしました。

この精神状態を一言で表すと『創造の病』でしょう。

その結果分かった事は、私が思いついた小説の筋書きは、ユングのアニマ理論と驚くべきことにまったく同じだったのです(注2)
ルドン キプロス写真 実際には私の精神は全くもって正常だったのですが、それが分かったのは相当な年月が経った後で、知り合った精神科医に当時の事を相談してはっきりしたのです。
 精神病の特徴は病識なの無さです。
「自分は精神病ではないか?」と疑っている精神分裂病患者などいません。

 しかし、この時の人間の精神活動・深層心理についての深い探求は、結果として『人間の心理、特に深い深層心理を表現する』という現在の私の制作能力の基盤を作り上げたのです

 それは、高階 秀爾がルドンを「魂の神秘を探求し表現した画家」と形容したのとまったく同じ意味です

私の芸術の世界の中心には、『無意識の世界』、『人間の深層心理の世界』と文学性があります。

(注2) 巨匠の審美眼が共通していることについて・・・誰を美人と感じるか?

大学卒業後はプログラミング専門学校の担任に

 大学卒業後は札幌市内で最大規模のプログラミング専門学校である札幌ソフトウェア専門学校に就職し、担任として国家試験 基本情報技術者試験、応用情報技術者試験の受験指導に当たります。

 その後、画業に専念したくなり非常勤講師となった1年後に大手学習塾の教室長に転身。

 さらに1年後に独立して小中学生対象の個別指導学習塾『横田進学教室』を創業。 画業と学習塾経営を両立させていきます。

 プログラミング専門学校勤務の経験は、現在のプログラミングスクールの経営、そしてホームページ作成やSNSを駆使したWEBマーケティング、AdobeソフトやPainter,、Poserを使用したパソコンによる作品制作に繋がっていきます。

東京画廊の山本豊津代表との出会い・・・そのあなたの鑑識眼を大切に育てていきなさい

 非常勤講師になった頃に、東京画廊の山本豊津代表に出会います。 
 
最初に描いた大作の油画 
 きっかけは独立美術や国画会などの公募団体に応募しようとした時に、「兎に角100号の大きな絵を数枚送ってきてほしい。」と言われた事。
 そして、真面目に応募しても入選する気配が感じられなかった事。

 有力公募団体であるモダンアート協会の会員に「絵で食おうと思う人間は公募団体などには応募してこないですよ」と言われ、事情を日動画廊などに聞いてみてもさっぱり納得いくような返答が得られなかった事です。

 その頃、芸大・美大の卒業生は村上隆や奈良美智のように、独立美術や院展などの公募団体を見限り、現代美術の方に進み、世界での活躍を目指すようになっていたのです。

 保守系の画壇関係者は話にならないと思い、日本を代表する現代美術画廊である東京画廊に電話すると、すぐ社員の方が出てくれて「公募団体の絵に何の価値があるのか?と思うなら、そのあなたの鑑識眼を大切に育てていきなさい」と言われました。

東京画廊経営陣
 「東京に行ったら、会って私の作品の写真を観てもらえますか?」というと「必ず観てあげます」と快く承諾してくれました。 ところが、笑い話ですが、私はその社員の名前を聞くのを忘れてしまったのです。

 数年後、飛び込みで東京画廊に行った時、画廊を案内して下さった和泉さんという社員の方に「電話に出たのは誰でしょうか?あなたにとってそれが一番大事に事ではないですか」と言われてしまいました。

 すぐに山本豊津代表に話を通して下さって
「職員の名前が分からないのであれば、私でよければ明日会いましょうか?」と言ってくださり、翌日お会いました。 作品の写真も観て下さり、丁寧に講評してくださいました。

 (左上は最初の出会いの時に持って行ってお見せした作品写真。右は東京画廊経営陣の写真です。写真をクリックすると山本さんと高島ちさ子さんの対談記事をご覧いただけます

小林孝亘 作品写真 その時に、「うちとは画風が会わないかな。あなたの画風に一番合っているのは西村画廊だから、西村さんから来たこの小林孝亘展のDMを持って、私の紹介だと訪ねていくとよいでしょう。」と言われ、その日のうちに西村さんに会いに行きましたが、社員の方が作品の写真を受け取ってくれただけで、結局何度訪ねても会ってくれませんでした。
 西村画廊ではその日小林孝亘展をやっていて、初めて彼の作品を観てモダンで素晴らしいと思いました。(写真画像)

(注4)ギャラリストが画家志望者と会うということ (注5)黎明期の小山登美夫ギャラリーを訪問した思い出

あなたの画風を確立しなさい。

 数年に一度お会いするようになって3回目ぐらいにお会いした時に山本さんが

あなたも良い歳なんだから、そろそろ自分の画風を確立してデビューしないと」と苦言されました。

 それまでは、ピカソが『カメレオン』と呼ばれたように描画スタイルを目まぐるしく変えて事も脳裏にあって、画家の画風は一つでなくて良いと思っていました。

 しかし、それはとんでもない間違いで画家でもミュージシャンでも自分の表現スタイルが無いとプロではないのです。

 例えばギタリストなら、名刺代わりにジャ~~ンと一弾き奏でれば、エリック・クラプトンならクラプトンの音を、キース・リチャードならキースの音を出すので、聴者は聴いただけで誰の演奏か分かりますよね。

 それゆえその後自分の画風を必死で模索していきました。

 結局、母の死がきっかけとなってで自分の画風が今のように確立されました。
 そして、紙にパステルで描くスタイルもほぼ同時に確立したのです

世界的にみて私以外には、ルドンのように本格的に紙にパステルで描く画家はにいないと思います
(注6)なぜ、パステルで描くのか? (注7)母の死から受けたインスピレーションとイチローのような体験

村上隆と君の差は、明日倒れても歴史に名前と作品を残そうとするぎらついた欲望があるかどうかだけだ!

レオナルド・ダ・ヴィンチ ポスター 2007年に自信作だった『レオナルド・ダヴィンチ礼讃Ⅱ』の写真を持って、また東京画廊に行きました。

 山本さんは『随分作風が変わったね。私は画家ではないが絵だけは数多く観てるんだよ。まず、プロとしての要件は全て兼ね備えている。尾形光琳のような線も俵屋宗達のような線もある。これから老年期を迎えるに当たって、良い道を切り開きましたね。」と言って下さいました。

 山本さんがいうプロのアーティストとしての要件とは何か?
 直観的に『作品の制作能力・それを支える制作理論・マーケティングのスキル、マネジメント能力』の3つだと思いました。

 「今後に向けて良い道を切り開かれましたねえ。これからは、自分がこの日本のこの時代に生きた証として、ピカソのように『青の時代』や、『桃色の時代』『キュビズムの時代』と、制作の時期と作風ごとに部屋が違う大回顧展を美術館で開けるように頑張って下さい。」と言われました。しかし、

自分はオディロン・ルドンとレオナルド・ダヴィンチの生まれ変わりである

とほぼ信じている私は、

「前世でどんなに名声と富に恵まれたとしても、輪廻転生で生まれ変わったら全てZEROからのスタートですからね。名声なら前世で充分得てきたと思うのです。」

というと、山本さんは烈火のごとく怒って、

なぜ君の絵が駄目なのか、今日分かった。君ねえ、村上隆とは先日もじっくり話したけれど、彼は「自分が日本のこの時代に生きた証を残すんだ。村上隆という男がここに生きたのだという証を、名だたる有名美術館に残すのだ!そのためなら、明日、パタッと倒れても本望だ!」と思って生きているんだ。君と村上の差はそれだけだ!(怒)」と1時間半、猛烈な勢いで説教されました。

 自分の子供でもない人間に、ここまで本音で説教する山本豊津氏に、私は心からの感謝と畏敬の念をいだきました。

 「君の絵が駄目」という真意は、直観的にすぐに仕上げの甘さだと思いました。

 村上隆ほど、人並外れて入念に作品を仕上げる画家はいないからです。

  確かに山本さんの言う通りです。山ほど願ってやっと食えるのが絵やスポーツの世界です。

「有名にならなくてもよい」と思っていては食えるようになる事さえおぼつかない。

  無理やりにでも自分の心臓に燃料をくべて、前を走っているライバルに闘争心を燃やし世界のTOPを目指してあらん限りの努力をしなければならない。

この山本さんからの叱咤激励の言葉は、松坂大輔がイチローと対戦して三振に打ち取った時の「今日で自信が確信に変わった」というのと同じ確信を私に与えて下れました。

  何せ、山本さんと村上隆は、アートフェアなどで会うと長時間話し合いあうような旧知の中で、「少女像」の連作を描く前の奈良美智をドイツに訪ねていった人ですから。
  山本さんの叱咤激励は「彼らと私を比べて、私がどう見えるのか?」を語ってくださったものだと思います。 私は「努力すればアートの世界で大きな成功を得られる」という自信を得ました。

(注)山本豊津さんの驚くべきエピソード・・・(注8) 少年時代は家で岡本太郎とご飯を食べていました

リーマンショックで制作を一時中断

 山本さんには、その時にパステル画を精力的に制作し、描き貯めて、また写真を観せに東京に行く約束したのですが、その後リーマンショックが起こります。

 政府が大々的に社会人への職業訓練を行ったため、経営していたプログラミングスクールもそちらに生徒さんが流れたこともあって職業訓練を受託せざるえなくなり、そちらにつきっきりになり制作する余裕が無くなってしまったのです。

ようやく落ち着いて、制作に打ち込めるようになったのが2016年の後半ぐらいからでした。

 還暦を前に「ここで画家として生計を立てられるように勝負を掛けなくてはいけない」と決意しました。

そこで、短期集中で一気に作品を用意して、取り扱い作家になれるように東京画廊に持ちこんだのです。

決死の飛躍 写真

 それが、このホームページに載っている作品群です。
 結局、『画風の違い』により契約とはいきませんでしたが、作品への推薦文を書いていただき、具象系の有名画廊に売り込むようにアドバイスを受けました。
(注9)画風の違いで契約に至らなかった理由

 東京に行く前に、インターネットとパソコンの普及で、商業画廊を通さなくてもSNSとWEBマーケティングによって自由に作品を販売できる時代になっていることにも、気付いていました。
 また、すでにその先駆者もいます。『世界画家旅人 ZIN ART』 

 むしろこちらの方が大きなチャンスだと考えています。

 今現在、本格的に徹底的にインターネットでセルフ・プロデュースをして、作品販売や新しいジジネスモデルで収入を得る事を実践した画家はほとんどいないと思います。

 ぼやぼやしていると、ネット販売は参入障壁が0に近いため過当競争になることは目に見えています。

 実行するなら『今でしょ!』

『ハングリーであれ!』 今、ステーィブ・ジョブズのように全ての点が繋がり面となった。

スティーブ・ジョブズ 画像
 ネットでの販売、あるいは新しい形のアートビジネスを考案・実行するためのスキルが私には全てそろっています。

 大学時代に半ば強制的にプログラミングを学ばされた事が、その後プログラミング教育を職業とする事に繋がりました

 しかも現在私はプロのWEBディレクター・WEBデザイナーであり、AdobeやPainterなどの描画ソフトを駆使しての作品制作に熟達しています。
 経営しているプログラミングスクールはホームページを使用したWEBマーケティングのみによって長年集客しています。

 また、大学時代にうるさく習得を求められた英語力で英語版のホームページも難なく作れました。

 私は憧れた外科医にはなれませんでしたが、入学したその日から逃げ出したかった商科大学で学んだプログミング、会計・簿記、英語、法律学、経営学、経済学、商学などの学問を、習った事を基本を土台にして卒業後研鑽を重ね、全てを毎日フル回転で日々の仕事に使っています。

 独学で学んだ美術や芸術を始めとする人文科学系の教養・理論と相まって、私が今までに学んだあらゆる知識と経験という点は、今有機的に繋がりステーィブ・ジョブズが言ったように面となりました

 『二家二業の運』という占い師の斎藤聖峰の予言は、二つの家庭を持つ事にはならなかたけれど、中年期に実業家として独立し会社経営と現代美術家という二業を持った訳で、今現実のものとなりました
 これはやはり運命なのだと思います。

 ユングは「運命、それは人の介入を許さないだろう」と言っています。

 ユングが『歴史上もっとも高い認識に達した老賢者の典型』といったのが老子です。
その老子が言った『俗人昭々、我独り黄昏のごとし(ページの第20章参照)』という言葉を、ユングは晩年に「年を重ねるごとに深く共感する」といいました。
今、私も深く同意します。

加速度的に滅びていく地球で、私はまだ人事を尽くしていない。

ユングの臨死体験 ポスター 今、加速度的に滅びていく地球と多発する紛争や難民。どんどん脅かされる自由と民主主義。

 その事に異を唱えず無関心なアーティストは、アーティストとして価値が無いでしょう。と思います。
 どんな名声も金銭も、地球が崩壊してしまっては何の意味もないように思います。

 歴史を振り返れば、ピカソ、カンディンスキー、クレー、ジョン・レノンやミック・ジャガー、ボブ・ディラン、チャップリン。
 独裁と軍国主義、人間のエゴイズム=自己中心主義に反抗しなかった偉大な芸術家はいません。

 しかし、今はまだ『俗人昭々、我独り黄昏のごとし』とは言ってどこかの国に立ち去るようなことはしません。

 なぜならば、私にはやるべき仕事が残っているから。

 自分の心臓に燃料をくべて、欲望をたぎらせなければいけない。私はまだ人事を尽くしていません

 山本豊津さんが言うように、枯れた事を言っていてはいけないのです。

 私はもっとたくさんの人々の役に立つ作品を造り、私が知りえた美術と芸術の謎と秘密を皆さんに分かるように伝えなくてはいけません。

 私は、手塚治虫と同じように輪廻転生を信じています。

 ですから、もし生まれ変わったら、少なくとも私が到達した地点の続きから始められように作品と文章をこの世に残しておかなければいけません。
 それは、私がこの時代の日本に生きた証しであり、後世の人への貴重な遺産となるでしょう