東京画廊の山本豊津さんとは数年に一度お会いするようになりましたが、3回目ぐらいにお会いした時に
「あなたも良い歳なのだから、そろそろ自分の画風を確立してデビューしないと」
と苦言を呈されました。
「ピカソは『カメレオン』と呼ばれたように描画スタイルを目まぐるしく変えたではないですか?
表現スタイルは一つでなくて良いのではないですか?」
と言うと
「それでは趣味でただ好きなように描いているだけだよ。」
と言います。そして、
「コンクールの受賞を狙うなど『意味の無いむだなこと』は止めて、兎に角どんどん作品を制作してその写真を送って来なさい。」といいます。
実は画家もミュージシャンと同じで自分の表現スタイルが無いとプロではないのです。
例えばギタリストなら、名刺代わりにジャ~~ンと一弾き奏でれば、エリック・クラプトンならクラプトンの音を、キース・リチャードならキースの音を出すので、聴者は聴いただけで誰の演奏か分かりますよね。
それゆえその後私も自分の画風を必死で模索していきました。
札幌で2017年に96歳で亡くなられた、全国に名バーテンダーとして名を轟かせた『バー山崎』の山崎達郎さんという方がおられます。
山崎さんは若い時に画家を志したのですが、売れなくてバーテンダーになったそうで、生涯「画家になる」とおっしゃってました。
何人もの常連客の人に
「山崎さん、自分だけの画風を確立しないとプロになれないよ~~~。」
と言われていたそうですが、何度言われても「そんなの関係ないよ」と意に介しませんでした。
実は、この辺りがプロとアマチュアを分ける分岐点だと思います。
山崎さんは『切り絵』がプロ級で、初対面のお客さんの横顔をその場で制作することでも有名でした。
私も一枚作っていただきました。
母の死がきっかけとなって自分の画風が確立。イチローのような不思議な体験
20020年に食道癌を患っていた母が亡くなりました。
その母の通夜の時に、脳裏に、お寺の仏壇にあった『金の蓮の花の彫刻』が思い浮かび、その蓮に雪が降る夜の光景が思い浮かんで来たのです。
その瞬間「自分も小林孝亘のように、もっと三次元的に対象をマス=大きな塊として彫刻的にデッサンすべきだ」と感じたのです。
それがマチスのように平面的に描画するスタイルに囚われていた私を一気に開放してくれました。
それはイチローが大リーグに行く前に、スランプを脱出して自分のバッティング・フォームを確立したエピソードと酷似した不思議な経験でした。
その結果、右上の写真のような、ものを大きなマス・塊として捉える画風が確立されたのです。
さらに、それから毎晩のように、自分がイチローとなって球場で面白いようにヒットを量産する夢を頻繁に観るようになりました。
私はこの時、イチローが先のエピソードで
「自分は2度とスランプに落ちいらないだろう」
と確信したように、もはや主題に困ることが無くなったこと。
無限にいくらでも絵を量産できるようになったことを悟りました。
アートは未だに多くの描くべきものが描かれないままであり、描くべきものは無限にある事を悟ったのです。
私は人生で始めて天啓・インスピレーションというものを得たのです。
私は、人の死というものをそれまでは観念で理解していて、感情では理解できていませんでした。
それが母親に死に直面して、深い悲しみと感謝の感情が心の扉が開いて一気に解き放たれて映像になったのだと思います。
それから数年して紙にパステルで描くスタイルが確立しました。
今、世界的にみて私以外には、ルドンのように本格的に紙にパステルで描く画家はにいないと思います。
なぜ、パステルで描くようになったのか? はこちらのページをご覧ください。