私は芸大も美大も美術の専門学校も出ていない。独学というとてつもない苦労

画家を本格的にめざしたのは小樽商科大学の2年生の時で、その時私は2つの大きな壁にぶつかりました。

  1. 一つ目は『何を描けば良いのか?まったく見当がつかない。』という、どうしようもない創造力の無さ。
  2. 二つ目は眼にしたもの、頭に思描いたものを満足いく技量で描くことが出来なかったことです。

まったく何を描けば良いか分からない

大学に入ってまず最初に愕然としたことは、人生において重要なことがまったく何も分からないことでした。
小樽商科大の入学直後のオリエンテーションで、高校までの勉強はすべて忘れること。

そして教養課程にいる時にできるだけたくさん自主的に本を読むように英語担当の永原教授に言われましたが、これは商大に入る前に半年在学した帯広畜産大でも入学式で学長の西川正義学長に言われました。

とに角、自分で生計を立てる方法も身についていなければ、人生とは何なのか?社会や世の中とは何か?世間とは何か?人間は何のために生きていくのか?自分が生きる意味、目指すゴール。

全てが何にも分からない。

高校までの社会科や国語など、基礎的な知識は身に付きましたが、まさにほとんど何の役にも立たない訳です。

ですから、絵画を描くのでも、まず絵画とは何か?美術とは何か?も分からない。

それもあって、何をどう描いていて良いのかが皆目分からなかったのです。

いかに日本の中等教育が創造力を衰退させるのかをまざまざと実感したのです

◆観て描くことへの固執から脱出する必要

今までの経験からいうと、絵の実力を高めていくための第一歩として、昔の印象派の画家のように『物や風景を観て描く』という固定観念から脱出して小説家のように『想像したものを描く、思索したものを描く。主張したい事を描く』という段階に飛躍することが必要なのですが、これを自覚したのも本当に後年のことです。

つまりカメラから思想家に脱皮する必要があるわけです。

これは、目の前のものを見つめている状態から抜けだし、木のてっぺんに止まって、あるいは旋回して、地上を見渡す鷹のように俯瞰して全体を把握する状態にいかに抜け出すか?ということです。

TV番組のプレバトでもそうでしょう。風景を描く。風景画家がプロと称して素人の作品を論評している。

今だに多くのアマチュア画家がこの固定観念に縛られています。

松任谷由美は「ステージでは自分と出演者全員を見下ろす自分がいる。」とTVで話していました。

天才にはこの物事を俯瞰的に観ることができる能力を備えた人が多い

サッカーの中田英寿はボールを蹴りながら、常に撮影カメラからサッカー場全体を思い描いてパスを出せたといいますし、ツール・ド・フランスなどで勝利を量産したスプリンター(平坦ステージで、競輪のようにゴール前で小競り合いをしてトップで駆け抜けるタイプのロードレーサー)のロビー・マキュアンも同じ能力を持っていたと思います。

この自分をみつめコントロールするもう一人の自分を実存主義の哲学者、サルトルは『即かつ対自』と名付けました

次号では高校時代の画業のブランクが重くハンディとしてのしかかった事をお話します。