人に語れる苦労は苦労ではない。アウシュビッツを収容者は語れるか?

前回はストーリーテリングの手法を採用して、自分の苦労話で読者の共感を得ようという人が増えている。というお話でしたね。

苦労話を語る人は多いですが、それを目撃する度に思うのは、文章で語れる苦労など本当の苦労ではないという私の確信です。

シベリア抑留やアウシュビッツでの拘束、今でいえばウイグル自治区での強制監禁やミャンマーでの軍事政権の弾圧などの本当の苦労を恐らく解放後語りたいという人はほとんどいないのではないかと感じるのです。

それを後世のためにと勇気をもって語る人、例えば原爆の被爆者の方などは本当にその勇気に感服せざるを得ません。

語りたくない理由は上手く説明できないのですが、まずひとつは「思い出したくない。」
という気持がると思います。

また、そういう苦労をした自分を恥じる気持ちもあるように思います。

例え、それが私の責任だけでなくても、あるいは実はその苦労が後の成功への不可欠な要因であったにせよです。

それと、何と言っても自分のプライバシーは人に話たくないという気持ちが強いです。

私がした高校教員としての苦労は、これらの苦労と同じだと思っています。

ですから、「じゅあそれを居酒屋で聞くかい?(笑)」という話です。

恐らく、聴く若者は30分も経たないで恐怖で耳を塞ぐと思うのです。

確かに、今の日本の若者が置かれた状況は、私の若いときより辛い事が多いと思います。
賃金が安いし、昇給が見込めない人も多い。

しかし、ネットがあるので、かつてより圧倒的に簡単に起業できるし、成功している若者も多い。

大学は驚くほど簡単に入れるし、医学部にも入学しやすくなっています。

何せ、大学の定員は40年前と比べて増えて、受験生の数は半分ですから。

アルバイトや契約社員で生計を立てていても奇異な目で見られることもない。

どの道、人生では苦労するものである

「人生は苦だ。この世の一切は苦だ!だからこの世に生存したいという欲望を断ち切れ。自分が存在することへの執念を粉々に砕いて捨ててしまえ。」といったのが仏陀ですね。

この苦を仏教では『四苦八苦』といいます。

仏教については鈴木大拙とか色んな人がその本質を語っていますが、大拙の本も20冊ほど読みましたが、仏教の本質は「何か重要な事を悟る、つまり直感的に認識する。」ということと、「この自分というものを破壊して無しにしてしまう。」というこの2つだと断言できます。

前者は棋士の加藤一二三さんが「私は若い頃、将棋の対局の記録を読んで大変面白いと感じ、自分は将棋が好きなのだな。棋士に向いているのだなと悟ったのです。」というのが一例ですね。

仏教では「悟りに大悟あり、小悟あり」い言いますが、正確に事実を認識することなら何でも悟りなんです。

だから、「もの事は全て変化する。滅びないものはない」という仏陀の認識が悟りのです。

「人間はそういった認識を重ねて知性を伸ばしていくものだ」というのが仏教の教えですね。

鈴木大拙は「仏陀の悟りの内容を何としても仏教研究者は理解しなくてはならぬ。」と言いつつ、ついにその答を語ることは出来ませんでした。

ですから「朝に道聞かば、夕べに死すとも可なり」などというのは絶対嘘です。

でなければ人生を運命がもたらす死の時まで生ききる意味が無いでしょう?

続きは第5話でお話しますね。