インドネシアに渡って不動産王になって資産4500億円を築いたアニキこと、丸尾孝俊俊さんは「第一人者に会いに行けや!」「都会に行くな!田舎に行け」と著書で言っています。
これを最初に聞いた時、何のことやらさっぱりわかりませんでした。
昔、幸田シャーミンさんというキャスターが「祖母の教えは、[どの道に進むにも、駅を降りたら真っすぐにその道の第一人者を尋ねていきなさい」というもので、それを実践したから
キー局の人気キャスターになれた!」と著書で話していました。
私も、土地バブル崩壊をきっかけにプログラミングの専門学校担任を辞めて画家として生計を立てて行こうとした時に、色んな美術団体の会員や商業画廊に電話して、「どうやったらこれから2年間で画家として食べて行けるか?」を尋ねました。
そんな中で、東京画廊だけが、東京に上京したら画廊で会って作品の写真を観てあげると約束してくれました。
もう20年以上前の事です。
それから3年ほど後に上京して東京画廊に電話すると山本豊津代表が「社員があなたに約束したのだから、私でいいなら明日の午後、画廊で会いましょう」と言って下さりお会いして3時間も意気投合して対談しました。
その前日に、今でも年に1回国立新美術館で開催されている、無審査で作品を展示してくれる日本美術会のアンデパンダン展に出品していて、会期中に上京し夜の出品者の懇親会に出席したのです。
お酒も進み、上野の居酒屋で前年の出品で仲良くなった出品者8名と懇談していた時、私が
「明日の午後に東京画廊の山本代表が会ってくれるんだよね。本当に楽しみでしょうがない。電話で話をした社員の人は僕の事を高く評価してくれたみいただからね!」というと、彼らのうちの一人が、
「まあ、あいつらのいつものやり口だ!作品がコンスタントに売れるかどうか?あいつらはいつも不安だから、兎に角良さそうと思った画家をキープしておきたいんだ。そうして、結局そのままで何も起きないんだよ!」
とい言い、周りの2,3人が
「そうだそうだ!まったくそうだよね!」と賛同したのです。
彼らは全員、武蔵野美術大学と多摩美術大学の卒業生でした。私は
「でも、そんな悪気のあるような人には思えなかったけど。凄く品があって堂々とした感じだったけど。兎に角明日、尋ねてみるよ!」と言いました。
別の慶應大学経済学部中退の郵便局員の同席者はその後二人切りになったとき、
「あなたの絵の色彩は本当に美しい。だがそれが何だというのだ。東京画廊が何だというのだ!」と憤慨して言い放ちました。
彼らは「今日の出品者同士での品評会にあなたは居なかったけど、出た方がいいよ。批評はキツイけど凄く参考になるから」と言い、
「我々は、無料で的確にお互い品評するので、何も商業画廊などに品評してもらわなくてもいい。こんなに安く良心的な美術団体はない。アンデパンダン展で充分!」と言いました。
★それを聴いて私は、「来年からは出品するのは辞めよう。そして、もうアンデパンダン展との付き合いは一切辞めよう」と決めました!
彼らが嫉妬していることは明らかだったし、狭い、本当に狭い桶の中で互いの傷を舐めあい、賞賛し合って崩れそうな自尊心をかろうじて保っている金魚のような存在であることは明らかだったからです。
この事がきっかけで、それまでの思い込みであった「真剣に美術に向き合っている人間は善良な人ばかりだ」という思いは、まったく間違いだったこと。
いやむしろ、他の職業の人以上に嫉妬深く、また弱い人が多いことも分ったのです。
結局、私には画家の友人は今になっても一人もいないです。
あれから、もう25年は経ちます。
私の作品の画風も、実力も評価も飛躍的に伸びました!
結局当たり前ですが、アンデパンダン展からは一人のプロの画家も生まれなかったのです。
ですから、この交流会に参加する方には、札幌や北海道という狭い地域と、狭い人間関係、グループの中で安住して自分の居場所を確保しようとしてほしくないし、そのような方には最初から馴染まないと思います。
先程の懇親会の美大卒の人たちの発言を聴いて感じたことがあります。
当然ながら私は芸大生、美大生が駄目であると決めつける意図はまったくありません。ただ、やはり競争が激しいんだなあと思ったのです。
その中で挫折感を持った人間の気持も分るよ。ということなのです。
芸大生・美大生といっても同じアーティストを目指す人間ですからね。
全員がライバルなのです。
学校での日々も、その才能や実力を在校生同士絶えずナーバスに気にしあって、優越感や劣等感を激しく感じ決して心穏やかな日々ではなかったんだろうなあと推測しています。
人間だもの、当たり前ですよね!
ですので、私は、共に世界のトップを目指す人と出会い、切磋琢磨していきたいと思っております。