私が大学生になってすぐに現代思想なるものがブームとなりました。
仕掛け人は『朝日ジャーナル』編集長の筑紫哲也さんです。

筑紫哲也さんはフランス現代思想を日本に輸入し解説していた京大人文科学研究所助手の浅田彰と山口昌男に拾われた東京外国語大学アジア・アフリカ言語文化研究所助手でチベットの宗教などを論じていた中沢新一に『新人類』というキャッチフレーズをつけ、

「いま知の最前線へ突入しよう。マルクスの資本論はソファーに横たわって読むにふさわしい。
いま軽やかに知を横断し知と戯れよう!!!」

などというコピーを作って、日本の人文科学学界を暗黙のうちに旧態依然としたものとして、そこに挑戦する若手天才学者というブランディングで一大ブームを巻き起こしていきました。
浅田彰 逃走論 画像

その後、浅田彰が著書で紹介した、ジュリア・クリステヴァ、ジル・ドゥルーズ、フェリックス・ガタリなどがデタラメの論説を難解な表現で表現しているとアラン・ソーカルに暴露されて、一大事件となり(ソーカル事件)、中沢新一もオーム真理教と麻原彰晃を高く評価したことや、著書の信憑性、科学的信頼性の欠如だ指摘され、両者とも信用に大きな疑問符をつけられることになりました。

このような事情ではありますが、浅田彰の代表作である『逃走論』の巻末に

『知の最前線に突入するために読むべき書物一覧』

というものがあり、その最初に「まずは二元論を克服するために」といってオクタビオ・パスを紹介していました。

パスについては、その著書は30代になってから偶然本屋で見つけて塾読するようになりますが、確かにその当時の既存の思想・哲学を乗り越えるためには、まず二元論を克服しなくてはならなかったと思います。

二元論とはキリスト教のような「善か悪か」・「白か黒か」・「共産主義か資本主義か」という対立する二項のどちらかを正解として選択する思想です。

私は大学で「20世紀は3人の学者との闘いだった。フロイト・ダーウィン・マルクスである」と教わりましたが、確かに20世紀はベトナム戦争やカンボジアの大虐殺など共産主義・社会主義のとの闘いであり、それは暴力との闘いでもあり、戦争の世紀でした。

それは共産主義と反共との闘いであり、どちらも凄まじい暴力を発動したのです。

新人類ブーム時の日本の人文科学学界も、サルトルの共産主義への共感など共産主義との対峙という状況が続いていたと思います。(注1)

ヨーロッパの文化はヘブライズム=ユダヤ・キリスト教ヘレニズム=ギリシャ哲学の二本柱で成り立っているというのは、哲学界の常識であり、多彩な宗教や哲学を持つインドや中国、日本などと比べ、思想・宗教などの文化面で東洋に劣るというのも学界の常識です。(平凡社 哲学辞典 より)

実はマルクスの思想も二元論です。

資本家か労働者か?最後は労働者が勝ち労働者独裁の社会になるという予測をマルクスはたてました。

マルクス思想は変形キリスト教、または変形ユダヤ教と考えてよいでしょう。

この二元論の枠組みを欧米も中国・ロシアなどの社会主義国も克服できていません。

未だに共産主義・反共産主義で緊張関係にある。

マルクスは自らの思想をひっくり返ったヘーゲルの弁証法といいました。

ヘーゲルの弁証法も間違いなくキリスト教の影響で生まれてきています。

正・反・合というのは二元論であり、その克服の思想ですよね。正と合が止揚され新しい正ができる。

では、弁証法は二元論の克服方法として有効なのでしょうか?

今の世界はより良い方向にいっているでしょうか?むしろ急激なスピードで崩壊に向かっていますよね。

この正は反と融合しどちらも保ったまま進化せて新しいものなるという根拠はどこにも無いように思います。

ジャック・デリダの脱構築

このような状況で、二元論の克服方法として登場したのがソーカル事件でもやり玉に挙がったジャック・デリダです。

ソーカル事件でもかろうじてその全面的虚偽の判定を免れた感のあるデリダ。

彼の思想は脱構築といいますが、簡単にいうと

「ものごとは善か悪か、AかBで決められないことがある。対立状況の中に、別な問いや様相が立ち上がってくることがある」

というものです。

例えば、「共産主義か社会主義かといっても、主義と言うのが有効であるという根拠はあるのか?」とか、「社会主義の中に資本主義を生かすことは不可能なのか?」とか、「まったく別な社会形態は考えられないのか?」といった問いが次々と現れて来ますよね。

これは「科学的に答を求めるべきかどうか?」という問いにたいし、「科学で使う数学の体系が正しいという証明は体系内の手段では証明できない」というゲーデルの不確定性定理に似ていると思います。

とするとデリダの脱構築は多くの場面で弁証法より有効だと言えそうですね。

物理学の理論に酷似していく中国の陰陽論と仏教の無実体思想

太極図しかし、私は二元論の克服方法としてより重要なのは中国の陰陽論だと考えています。

陰陽論は、この易などで使用する大極図で表せます。

この世には大極という根本的なエネルギーがあり、そこから陰と陽が生まれ、その二つが交流して姿を変えていくことで全ての物や出来事が起こっていくと考えます。

原子が陽子と電子の組み合わせでできあがっている。その原子の組み合わせで物ができあがっていますよね。

さらにコンピュータのデータが全て0と1という数字の組み合わせであり、あらゆる画像や音声もほぼこのデータで表現できますよね。

この共通性を考えると、芸術作品も0か1の二元論に立脚した作品よりも、陰と陽、その変化と新たな組み合わせで制作された作品の方が優れており多様性に富むのではないか?と私は考えます。

西欧は物を個性ある実体ととらえますが、物理学が発達すればするほど、「物事にはこれといった実体がない」という仏教の思想にどんどん近づいいます。

これは簡単な話でして、私の身体だけを宇宙の中で取り出すということは不可能ですよね。
重力があり光があり空気があって私は存在している訳です。

仏教、特に華厳経の思想では物事や世界を、中心がどこにも無い中空のような関係の網のように考えていますが、これは現代物理学の宇宙像とそっくりなのです。

であるならば、ヘブライズムの二元論は物事のモデルとしては非常にいびつなものと考えられはしないでしょうか?

西洋文明が環境をどんどん破壊していくのも、このものごとの関係性ということが理解できいからではないでしょうか?
あるものを無くしたり、改造したりすると、それが必ず全体に影響を及ぼすということが理解できないのでしょう。

マティスとカンディンスキーのジャンプ率の比較アンリ・マティスという画家がいますね。

村上隆は彼を「水のように人々に抵抗なく受け入れられる作品を描いている」と絶賛していますが、私は宇佐美圭司が「アンリ・マティスはどうも臭い。」(注2)といったように、どうもまがい物臭いというか欠陥があると思うのです。

簡単にいうと、彼の絵には陽しかない。陰がない。というか陰は陽の裏に隠れて闇となっている。

彼の絵は白と黒のジャンプ率(離れ具合・対比率)が極端に狭く、全画面の色面の明度が高いのです。

これが、彼の絵を観ていも今一つ感動しない理由だと思います。

彼の作品とカンディンスキーや梅原龍三郎の絵と比べてみて下さい。

2人の絵はジャンプ率が高く、雄大さとか引き込まれるような音楽的な感動が感じられます。

音楽だって低音と高音があり、その絡み合いでリズムとメロディーができあがってる。

マティスの絵は短調な音楽のようです。

マティスの絵にオダリスクシリーズというのがあります。

この絵は今、非常に人気が高いそうですが、これはいったい何を表現したものでしょう。本人は「トルコの方に行けば実際にこういう女がいるのだ」と言ってますが、金持ちや王族のお妾か高等娼婦でしょうか?

この女には精神というか、思想というか喜怒哀楽が感じられません。
まるでビニールで出来た人形のようです。

マチスの絵の素晴らしいパステル調の色彩を生かしながら、陰の部分も備え、それゆえに深い精神性、人間の深層心理までも表現していると言えるのがオディロン・ルドンだと思います。

ルドンの画風を、正であるマティスの作品が、反である陰を取り込み弁証法によって止揚したものである私は思いません。
ルドンの方が年代は古いですし。

冒頭の私の作品を観てください。

太極図である『白と黒のハヤブサ』が卵の中で眠ってる。

しかし、それが変化し始めているため周囲に様々な花や河となって五色の色彩をもつ『物』となっている。

この陰陽の変易ということをこの図は示唆しているのです。

私のこの画風・描き方も弁証法で、思考によって作り出したものではありません。
私の脳裏の中で、無意識を駆使しながら自然にこのイメージ・ヴィジョンが形成されていき、ついにルドンとの共通性に気付くにいたったのです。

ですからインスピレーションですね。

科学の発明・発見と同じように、自分の表現手法・スタイルの発見というのもインスピレーションから生まれるのかもしれないと考えています。

カンディンスキーの「私は自分の芸術を無理やり頭でひねり出す挫折した画家ではない。多くは直観に頼っている」という発言も私の実感と共通していると思います。

以上のように、これからの芸術は、二元論の枠から飛び出し、陰陽論に基づいての多彩な表現であるべきだと考えています。

(注1)現代思想が登場するまでの三十数年間、戦後日本の社会・政治思想の中心となっていたのは、間違いなく「マルクス主義」である。
(『日本の現代思想』仲正昌樹 著 p27 NHK BOOKS)

(注2)20世紀美術 宇佐美圭司著 岩波新書

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