札幌在住のパステル画家、デジタルアーティストの横田昌彦です。 こちらが初回のメールとなります。
札幌在住のパステル画家、デジタルアーティストの横田昌彦です。
こちらが初回のメールとなります。
これから是非、よろしくお願いいたします。
◆今回は私のアーティストとしての自己紹介です。
私は大学時代より画家を志し、大学卒業後は高校教員からスタートして
途中から起業し、学習塾やプログラミングスクールといった事業経営で
生計をたてながら独学で研鑽し、現在は制作した作品をジクレー版画
にして販売しています。
作品の人気も世界的に非常に高く、特にFaceabookでは海外からも1000
に迫る『いいね』をもらっています。
Facebookに広告を掲載した時の『いいね』をもらうは20%から30%で、
世界でも最も『いいね』をもらう確率の高いコカ・コーラの
Facebookページでさえ5%という数値からみると、驚くほど高い評価
を得て来たといった良いでしょう。
★私の作品の評価は高く、日本を代表する現代美術ギャラストからも
村上隆と並ぶ世界トップクラスの実力と評価されています。
画廊の名前などこのことについての詳細はこちらのページをご覧ください。
このことがどのようなことを意味するのかは、おいおいこの
メールマガジンでお話していきますが
少しお話すると、今はかつてほどの入試倍率ではないものの、
依然として日本で最も合格するのが難かしいといわれる
東京芸大油画科・日本画科に入学できたとしても、
日本を代表する現代美術のギャラリー、東京画廊、
タカイシイギャラリー、小山登美夫ギャラリー、
ミズマアートギャラリー、西村画廊などの画廊主に
電話でアポイントを取って会ってもらい、
さらにその結果、継続して会いたいときに
会ってくれて、毎回アドバイスをもらうという
仲になるというのは至難の業です。
なぜなら、これらのギャラリストが話してくれたのですが、
「東京だけでももの凄い数の美術系の大学生がいます。
日本だけでも6万人はゆうに超える美大生・芸大生、
専門学校生がいる。
彼らから毎日のように会いたいと電話が掛かってきます。
それで毎回会っていたら死んでしまいますよ。」
という事情があるわけです。
私が銀座や京橋の画廊に電話をしたり、直接アポ無しで訪問する
ようになったのは今から25年前ぐらいのことです。
そのころは現代美術の有力画廊といっても東京画廊、南天子画廊、
西村画廊、佐谷画廊、シロタ画廊、カネコアートギャラリー、
ギャラリームカイぐらいしかなく、
画廊としてトップをはっていたのが公募団体作家を
扱う日動画廊で、現代美術を売って生活をして
いくなど、特に芸大も美大も出ていないのに志すなど
気違いざただったのです。
ちょうど、小山登美夫ギャラリーが江東区食糧倉庫ビル
に開業し村上隆を売り込みはじめ、ミズマアートギャラリ―
が青山で産声を挙げ、会田誠らを売り出していったころです。
その頃の小山登美夫ギャラリーを尋ねていったのは懐かしい
思い出で、ミズマアートギャラリーは存在そのものが、
また美術業界にも知られておらず私も知りませんでした。
ですから、そんな状況で飛び込み営業しても、
ほとんどが門前払いか居留守を使われたのです。
長年の経験からいうと、芸大・美大を卒業しないで有力画廊の
契約画家となるのは著しく困難です。
やはり、東京芸大閥やデザインの多摩美術大学閥など学閥は
医学部以上に厳然としてあると思います。
なぜなら、大学と画廊は運命共同体な訳で、もし画廊が
美術大学以外の大学を卒業した者を差別なく
契約していたら、特に授業料の高い私大など存在理由
がなくなるわけです。
逆に画廊としても突出した天才でなくても安定して、
技術力をともなった何名もの画家を紹介・供給
してくれる大学は有り難い訳です。
◆なぜ、東京芸大の倍率が高いのか?
それは村上龍が『13歳のハローワーク』で書いたように、
芸大教官の持つコネクションを得たいからという側面が強い。
教授に有力画廊に売り込んでもらう、地方の美術大学や教育大学
に教官にしてもらえるなどです。
そうであるのに、私とほぼ同い年で芸大のエリート中のエリート
である、東京芸大美術部最初の博士号を取った村上隆でさえ東京の
画廊回りをして営業したときに相手にしてくれたのは200軒回って
1軒も無かった。全部断られた彼の著書『芸術企業論』に書いているのです。
ですから、東京芸大や多摩美術大学、武蔵野美術大学卒でもこれら
の有力な現代術画廊の取扱い作家になるのは、砂漠でオアシスを
見つけるようなもので、芸大・美大でなければ砂漠に金を探すようなもの、
ブルドーザーのシャベルの突端に糸を付け、地面に挿した針の穴に
糸を通すようなものです。
ましてや、25年前はネット販売やオルタナティブ空間など共同
で画廊を持つなどという者もいなかった。
作品を売る方法は有力画廊に売ってもらうのが唯一の方法だったのです。
そして、それよりはるかに格は落ちますが百貨店の個展で絵を売る
通称『百貨店画家』という方法しかなかった。
では、その中で契約作家かそれに近い存在になれる者の条件とは何か?
◆次回に続きます。
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