制作理論…芸術システム論 システム構築としての作品制作 絵画の音楽状態を目指して

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芸術システム論・・・絵画はコンピュータシステムと同じようにシステムである

小室直樹 論理の構造 システム論

小室直樹 システム構築論

 私は『絵画は詩や音楽や映画・舞台・ドラマもコンピュータ・システムや・建築物・政治制度と同様のシステムである』という考えで制作しています。
 システムとは『ある目的を達成するために、各部分が有機的に全体の設計図に従って結びつけられた装置』と定義出来るでしょう。
 そして、あらゆる種類のシステムははコンピュータ・システムの設計・開発と同じ手法で制作出来ると考えています。
 
 コンピュータ・システムの開発は
 

  1. 新規開発の動機、要求を確認しはっきりさせ(要求定義)
  2. 概要を設計し、外部設計、内部設計と進み、各部分の作りこみを行い、外部設計に従い組み上げていく。

 という過程を通ります。

 一つの例として、このシステム開発手法を作詞に当てはめてみると、詩は言葉という部品により日常的な言葉の使い方では伝えられない詩情や思想を、異化などの手法を用いて伝えるシステムであると言えるでしょう。
 異化とは元々ロシア・フォルマリズムが創った言葉ですが、大江健三郎やオクタビオパスが語るように、言葉を日常的な使用方法で用いるのではなく、あるイメージを読者に喚起するために効果的に使用する事です。

 大江健三郎の『新しい文学のために』(岩波新書)で紹介されている例を挙げると、俵万智の「白菜が赤帯しめて店先にうっふんうっふん肩を並べる」という短歌の例があります。

 白菜が人間のように「うっふん」と言う事は日常的には無いですが、白菜が「うっふん」と話す事でこの詩を読むものに新鮮なイマージ、詩情を喚起します。これが異化です。

例えば詩を書いて、それを絵画にする事

阿久悠 作詞方法入門

阿久悠 作詞方法入門

 気付いてしまえば、コロンブスの卵と同じで簡単な事だと思いますが、画家も自分で創った詩や散文詩を絵画にすることも出来ます。同じように作った曲を絵画にする事も出来ます。
 このように制作する画家は本当に稀ですが、南画の山岡鉄舟が自分の作品に詩を書く例がこれに近いかもしれませんね。

 このような制作方法と取る場合、当然画家は作詞法・作曲法の世界に入って行き、それを深めていく事になります。
 私は大学時代から膨大な量の書物を読んできましたが、同じように画家が経済学や経営学、精神分析や心理学、現代思想、哲学の領域に入って行く事も可能ですし、また大いにそうするべきだと考えています。

 私はすでに詩を書き、曲を書き、また表現の目的をはっきりさせ概要設計書から始まるシステム設計書を作成して、作品を制作する新しい革新的な制作方法の段階に入っています

芸術はコミュニケーションではない。意図した目的を鑑賞者に伝えるための表現である。

 芸術が千住博氏の言うようなコミュニケーションであるのなら、福島の惨状を訴える被災者のお婆さんも雄弁な芸術家という事になってしまうでしょう。
 芸術はコミュニケーションでは無く、ある目的を鑑賞者に伝えるために、考えうる最も効果的な表現方法を使用した表現でありシステムです。
 ただ単にこちらの目的を伝えるだけでなく、作品は世に発表された後一人歩きを始め、観る者達の間に議論を喚起することも目的としています。
 
 芸術作品は、理想的には全てを語りつくすよりも、ある事柄や問題点を暗示し、空想させ、鑑賞者が自分の意見を形成する機会となる方が望ましいでしょう。
 芸術作品はある主題についての世界への問い掛けである事が望ましいのではないでしょうか?。

アートは感動であるという思想とマルセル・デュシャン

梅原龍三郎 桜島 青 写真

梅原龍三郎 桜島 青

 「芸術とは何か?」という問への答えとして「芸術とは感動体験を表現するもの。または鑑賞者に感動体験を与えるもの。」という古くからの認識があります。
 アート作品は説明して理解してもらうものであると考えるアーティストもいますが、私は作品に感動する事は直観的体験であると考えます。
 ビートルズの曲に熱中するファンは聴いた瞬間に感動するわけで、ゴッホの作品に感動する鑑賞者もこれと同じ体験をしています。

 『芸術は感動である』という認識に対し、マルセルデュシャンは大きな革新的な扉を開きました。
 『アートにおいては何をしても良い。アートは無限に新しい表現を異分野と結びつけながら広げていく』という認識です。

 そこでは感動は必ずしも中心命題ではありません。
 それはも何人ものアート関係者が指摘するように、現在の芸術はもはやデュシャン出現前の芸術ではないのかもしれません。芸術ではなく芸術をも抱合した『アート』なのでしょう。
 私は、感動をもたらす【芸術】と【アート】を両方認識しながら、日々現在のアートシーンにイノベーションを起こすべく制作活動と理論形成を行っています。

シミュレーショイズム もはや全ては描かれ尽くし絵画は終焉したという誤認

 椹木野衣の「シミュレーショニズム」という本を読むと、シミュレーショニズムの剽窃、引用、リミックス(コラボレーション)などの背景に「全ては描かれ尽くしてしまった」という認識がある事が分かります。
 しかし、絵画にしても3次元表現にしても、それは唯の白紙の平面であり、無色透明の空間であり何を表現してもよいことに気付けば、描くべき主題、題材は無限にある事に気づくはずです。
 
 絵画が何を描いても良いということを深く自覚していれば、これまで誰も描かなかった虫、例えばオケラやオタマジャクシ、タガメなどを描くことは新しい画題の開拓となるでしょう。この発想から私は身近に生きる蝶などの虫やハヤブサなどの鳥を描いています。

補足 ルドンの言葉

ヴァイオレット・ハイマンの肖像

ヴァイオレット・ハイマンの肖像

【暗示的芸術とは何か】

 暗示の芸術は、ものが夢に向かって光を放ち、思想がまたそこに向かうようなものです。むしろ、我々の生の最高の飛翔に向かって成長し進化する芸術、生を拡大しその最高の支点となること、必然的な感情の昂揚によって精神を支持するのが暗示的芸術です。
 このような芸術は、音楽という感情高揚を伴った芸術において、より自由に、輝くばかりに完全に見られます。

 私の絵もまた、種々の要素を組み合わせ、形を移し変えたりして、偶然の結果ではなく、論理によって暗示の芸術となっています。
 私の素描は、何かを吹き込むためのもので、自らを明らかにするものではない。何も決定しない音楽と同じくはっきりしない説明のない世界です。」
 
 「暗示の芸術は、神秘的な影のたわむれと、心理的に考えられた線のリズムの助けを借りなければ何もできません。ああ、このたわむれがレオナルド・ダ・ヴィンチの作品、あれほどその結果を高くあわらしたものはありません。あの神秘性、我々の精神に作用する魔力はそこから発しています。」

 ※オディロン・ルドン 「私自身に」 池辺一郎訳  みすず書房 より

 横田より・・この発言は音楽性よりもむしろモナ・リザにあおの微笑みの効果に言及していると言えるでしょう。モナ・リザなどのレオナルドの作品ほど、鑑賞者一人々々に様々な事を想起させる作品は無いということ語っています。