今まで村上隆や東京画廊の山本豊津代表が語ってきたとおり
「現代アートの価値はまずもって、西洋美術の歴史的文脈によって計られる」
というのが欧米の白人・ユダヤ人アート業界のルールでした。
この西洋美術での文脈、すなわち表現様式における『イノベーション=革新性』に重きを置くという基準について、私は必要ではあるが絶対ではないと考えています。
音楽の場合、長年作品の評価は大衆が決めてきました。
「売れるか売れないか?」
ビートルズが世界を席巻してから数年してクィーンやレッド・ツェッペリンがデビューしました。
文脈上の革新性は、クィーンが「ボヘミアン・ラブソディ」でロックにクラッシック音楽の要素を大きく取り入れたことがあるにせよ、ほとんど何もなかった。それでも大衆の人気を博したのです。
これ以外にも美術と音楽には特性に大きな違いがあります。
例えばポピュラー・ミュージックはラブソングが中心であること。
その理由を色んなミュージシャンや作詞家などが語っていますが、多くの場合は建前での発言で、本音は曲先での制作が圧倒的に多いため、載せる詩を作るのときにラブソングは楽だからでしょう。
ラブソングは、詩に深い人間心理や哲学・思想の表現を必要としないので、人生経験に乏しい若者の場合、極端に言うと「それしか作れない」ことも多いと思います。
小田和正は「ラブストーリーは突然に」の制作依頼を受けて、ラブソング制作にいい加減ウンザリしていて一度断ったそうですし、大江千里さんが「後5年ラブソングを作って活動していくのは年齢的にも無理だ・・・」と判断してジャズピアニストに転向したのも、むべなるかなです。
岡村靖幸が還暦間近で『デイト』だの『彼氏になって優しくなって』だのと唄っているのをみると、我々のポピュラー・ミュージックへの評価尺度が習慣的に脆弱にされてきたのだと改めて思わされる次第です。
ある人が
「ラブソングが大流行するのは、それだけ現実での恋愛物語りが少ないからである」
といっていましたが、たしかに少子化高齢化がここまで進んだのもそういった現実があるのかもしれません。
女性にとってラブソングやジャニーズのタレントは、疑似恋愛体験のためのコンテンツなのかもしれません。
現在では若者の経済力が乏しくなってきて、結婚しないどころか恋愛すらできない人が増えているといいます。
ところがこのラブソングの表現が、漫画・アニメではたくさんありますあが美術には皆無です。
この状況を皆さん、一度じっくり考えてみるべきではないでしょうか?
自分の画風を確立するまでは革新性を追い事は必要
アートの評価について、大衆の評価が正しいのか?それてもギャラリストやキュレーターなどの専門家の評価が正しいのか?
松本隆氏は
「僕は大衆を信じている。大衆はいい判断をする。大衆が正しい。大衆というと質が低いとみなす人が多いけどそんなことはないです。質がともなって売れるのだから」(朝日新聞 時事抜粋)
といっています。
私もこの意見にほぼ同感です。
ビートルズが世界的なブームになったときにクラッシック音楽の関係者が何と言ったか?
「バッハやモーツァルトのように後世に残る曲が2、3曲はあるだろう」といったのですぞ。
ただし、自分の経験からいって、少なくとも西洋と日本の美術史は完全に理解しておいた方が良いです。
その上で自分の表現スタイルを一度は確立してから、ピカソのように多様な表現スタイルを試すなら試してみて良いと思います。
札幌のバーテンダーに、全国にその名をとどろかせたパー山崎の山崎達郎さんがおられます。
山崎さんも私と同じように若い時から画家を志していて、ずっと油彩画を描いていました。
いつもお常連のお客さんから
「プロになりたいのなら、表現スタイルを確立しないといけないよ。」(注1)
と言われていたそうですが、ご本人は「そんなことはないですよ。そんなの全然関係ないですよ。」と意に返しませんでした。
私の場合は、画家修業の途中で「それでは趣味で好きで書いているだけです。そろそろ横田君も自分の表現スタイルを確立しなければいけない!」と東京画廊の山本豊津さんにいわれて目が覚めたわけですが。
張本勲さんは著書で
「一度これだと思うバッティングスタイルが決まったら、それであらゆる場面に対処できるよう徹底的にやってみるべきである」
といっていますが、私の場合もパステルで描き始めてからは、油彩やアクリルで描きたくなる主題の作品でも、使用したい気持ちをグッと抑えてこの言葉を参考に、兎にも角にも色鉛筆とソフトパステルで描いてきました。
それがパステル画家という世界的にみても稀な私のセルフ・ポジションを作り上げたと思います。
ミュージシャンであれ現代アーティストであり、聴けば、観れば、瞬時に誰の作品か分かるような名刺代わりの表現スタイルを持つべきです。
スタジオ・ミュージシャンとエリック・クラプトンや高中正義のような有名ギタリストの違いはそれです。
あるエレキ・ギターの教本にこう書かれていましたが(注4)、
「イングウェイ・マルムスティーツやザック・ワイルドなどのプレイは一聴しただけで、”あっ、これは○○のソロだ!”、”○○のリフレやね”とわかります。
こう言われることは、もっともギタリスト冥利につき話じゃないでしょうか。サウンドは自分の名刺代わりになるものです」
アーティストにとって如何にオリジナルのスタイルというものが決定的なのか分かりますよね。
文脈上最新でなければ価値が無いのか?
先にもお話したとおり、音楽ではロックミュージックでてあれ演歌であれ、さらには相変わらずヒットしやすいカノンコードを使用た曲を作って発売しているポピュラー・ミュージックであれ、それが過去に相当にやりつくされたスタイルのものでも、売れる作品は売れるわけです。絵画も同じで、ここ数年ブームになっている写実画も数百年前からあるわけで、私も観るのが好きです。
ただ、今流行りの写実画の女性像は、何も考えていないし、あんな風に寝そべったり佇んでいる女はありえないし不自然です。
人物像というのは、やはりオディロン・ルドンが
「画面の中の人間は、画面から飛び出て生きて動きまわるようなリアリティがないといけない。」(オディロン・ルドン 『私自身に』により)
といったように、やはり人物には、モナ・リザや聖アンナのように心理描写というか深い精神性が感じられないといけません。
『花をもって微笑みたたずむ女性』とか、冷静に距離を置いて観てみると、公募団体展風というか実にありきたりで滑稽です。
それは、ルノアールやマティス、『裸のマハ』を描いたフランシスコ・デ・ゴヤなど過去の巨匠がそのような裸婦像を描いたことで、それを疑問を感じないのでしょう。つまり固定観念に縛られてしまっているのです。
それすなわち凡庸といっても言い過ぎではないと思います。
文脈での評価を否定する会田誠
最後に文脈での評価を否定する会田誠の発言を紹介します。
「美術(芸術 アート、contemporary art)とは何か?・・・・このような問いを前提に作られるものは、すべて近い将来滅びる運命にあるだろう。
美術であろうがなかろうが、作りたいものを作る。作るべきものを作る。生きたいように生きる。
そのようなものしか後世に残らないだろう。
今や美術者たちは、その忠言を聞くことが命取りになるウィッチドクターだ。」(注3)
これに対して会田誠の所属画廊であるミズマアートギャラリーの三瀦末雄さんは
「これには、引退勧告を受けたような衝撃を受けた。
長年、コマーシャルギャラリーを経営していると、つい「売れるかな」という目で作品をみてしまう。
いつの間にか冒険心を失っていた。売れようが売れまいが、美術であろうがなかろうが作りたいものを作る。
この宣言の先に日本の新たなアートの潮流が生まれてくる予感がする。」
このサイトで何度も書いている通り、ネットの普及でアート作品をギャラリストを通さないで販売できるようになり、ギャラリストやキュレーターが評価するアーティストと、ネットで人気に火が付くアーティストリストの乖離がどんどん激しくなっているようです。
商業画廊に所属しない私のジクレー版画も月を追うごとに売上を伸ばしています。
しかし、それでも新しい表現様式の発明というイノベーションには科学やビジネス上のイノベーションと同様に高い価値があると思います。
私も音楽を絵画に翻訳するというイノベーションを成し遂げました。
会田誠にしても、日本美術のアニメを大々的に取り入れるというイノベーションを起こしました。
結局は、以上に述べたことの全体を押さえてアーティストとして歩んでいければ、それがベストなのではと考えています。
(注1) 『すすきのバーテンだー物語』 北海道新聞社 山崎達郎 著
(注2) 『最強打撃力』 ベースボール・マガジン社 張本勲 著
(注3)会田誠 「美術であろうとなかろうと」展 パンフレットより
(注4)『ギターがうまくなる人の練習法』 p77 Rittor Music